図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

グリム兄弟(Grimm, Jacob Ludwig Carl, 1785-1863)(Grim, Wilhelm Carl, 1786-1859)

 グリム兄弟は、イソップやアンデルセンと並んで、世界中で親しまれてきた童話の作家として有名ですね。日本では、今世紀に入っても、ふたりの童話集や個別の童話が出版されつづけています。

 1歳違いのヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟は、ドイツ中部のハーナウという町で生まれました。長兄が夭折したため、次男のヤーコプは残ったきょうだいの最年長者となります。

 1796年、シュタイナウという村に移住していた子沢山のグリム家に、父が病死するという悲劇が起こります。この窮地を救ってくれたのは、カッセルで宮廷女官長をしていた伯母(母の姉)でした。彼女はヤーコプとヴィルヘルムをカッセルの古典語高等中学へ入学させ、家庭教師をつけてラテン語とフランス語を習わせてくれたのでした。

 

 このころから大学卒業までの兄弟ふたりの親密な関係について、兄のヤーコプが次のように書いています。

 「学校時代には、私たちは一つのベッドに寝、一つの小さな部屋を使用しましたが、その部屋では同じ一つの机で勉強しました。次いで、大学時代には同じ部屋に二つのベッドと二つの机が置かれました。その後の生活でも依然として同じ部屋に二つの勉強机が置かれ、しまいには最後まで、隣り合う二つの部屋に、常に一つの屋根の下で、各人の手近に置かれていなくてはならないために二重に買われた僅かな物を除き、私たちの持ち物と書籍を、文句を言われたり、邪魔されたりすることなく、完全に共有し続けました。」(1 以下、「」内はすべて同じ文献からの引用です。)

 

 ふたりは順調に成長し、1802年と3年に相次いでマールブルク大学法学部に入学し、これまた順調に卒業して、母のいるカッセルに戻ります。ただし、弟のヴィルヘルムはいつも持病の喘息と心臓病に悩まされていました。

 失業していた1807年、ヤーコプはカッセルの公共図書館に就職できるのではないかと考えました。理由はふたつ。第1は写本の読解に習熟していたこと、第2は独学で文学史に親しんでいたことです。

 でも、望んでいた地位は得られないばかりか、1808年、失業中の二十歳を過ぎたばかりの若者に、母の死という悲劇が襲いかかります。きょうだいの最年長者でありながら、経済的に何もできないこの時期は、ヤーコプにとって人生の危機だったといっても過言ではないでしょう。

 

 ほどなく幸運が訪れます。1809年、ヤーコプは、ヴェストファーレン王国(首府カッセル)の王ジェロームボナパルト(ナポレオンの弟)から直接に、文庫の司書を本務とする参事院の法務官に任命されたのでした。

 「その上、司書官としての私の職務は決して厄介なものではなく、文庫又は官房に二、三時間だけいればよく、その間も、新たに登録すべきものを処理した後は、落着いて自分のための読書や抜書きをすることができた。図書や図書による調べものを王から求められることはめったになく、それに、他の人には全く貸出しはされなかった。残りの時間はすべて自分のものであり、私はほとんど気にすることなくそれを古いドイツの文学と言語の研究に使った。」

 また、弟ヴィルヘルムにとっても、1809年は「私の病気の治癒が始まった転回点と考えることができる」良い年となりました。

 

 このように、研究時間をたっぷりと確保できた兄と、健康を回復した弟とは、1810年代に入って次つぎと調査・研究の成果を発表してゆきます。あるときは協力作業の結果として、あるときは独自の研究の結果として。

 兄弟の本領は言語学にありますが、彼らの名を世界中に知らしめた協力作業の成果『グリム童話』(正確には『子どもと家庭のメルヒェン集』または『子どもと家庭の童話』)は1812年に第1巻、1815年に第2巻が刊行されました。この著作は、兄弟による創作というよりは、ドイツ各地に伝わっていたおとぎ話を収集したものです。「白雪姫」や「赤ずきん」、「ヘンゼルとグレーテル」など、日本でも多くの人が一度は読んだり読んでもらったりしたことがあるのではないでしょうか。

 

 弟のヴィルヘルムは1814年にカッセルの図書館で「図書館書記の肩書を有する地位」につくことができました。兄と同じ職場で働きたいと願っていた彼は、次のように書いています。

 「翌一八一五年に{図書館長の}シュトリーダーが亡くなった後、私の昇進もあったであろうが、私にとっては昇進よりも、{略}兄がその地位に就けるかもしれないという希望の方が価値があったのである。私たちはそれまで一度も離れて暮らしたことがなく、私たちの力の及ぶ限り長く、一緒のままでいようと決心していたのであるが、このような一緒の官職はそうした私たちの心からの願いをかなえるものであった。ほとんど予想に反して、この願いは聞き入れられた。」

このようにして、「私たちは時間どおりに運営されるこの役所で好ましい、ためになる仕事を見出し、その上、研究といくつかの文学上の計画の実行のための暇も見出したのである。」

また、「私は図書館に一四年おり、そして一般的な慣習に従ってフランスによる占領時代を加算すれば、二一年在職したこととなり得たであろう。図書館にはこの時期、私が就職した当時にいた職員は皆亡くなっていた。一八二九年一一月二日、私は図書館の職を辞した。」

 

 兄ヤーコプも同じ時期のことを次のように書いています。

「この時{一八一六年の中ごろ}から、私の人生で最も穏やかな、最も勤勉な、そして最も実りゆたかであるかもしれない時期が始まる。シュトリーダーが亡くなった後、私は以前から望んでいたカッセルの図書館における地位をついに手に入れた。この図書館には、{弟の}ヴィルヘルムが一年前から勤めていた。私はフランクフルトの連邦議会における公使付き書記官の勤め口を断固として辞退していた。私はこうして次席司書官となり(一八一六年四月一六日)、引き続きそれまでの六〇〇ライヒスターラーの給料を維持し、フェルケルが首席司書官に昇進した。図書館は毎日三時間開かれ、残りの時間はすべて気の向くままに研究に充てることができた。ほかに、主に私に割り当てられた検閲官の職務のように小さな副次的職務があったが、大して負担にはならなかった。同僚のフェルケルとは友好的な関係にあり、私と弟に対する妥当な、正当な昇給さえあれば何の不足もなく、私たちにはその点で望み事はほとんどなかったであろう。すばやく年が過ぎ去っていった。」

 自分の成し遂げたいことを抱えながら宮仕えをする人たちにとって、これは何ともうらやましい図書館員生活だったのではないでしょうか。

 

 兄弟がまだカッセルの図書館で働いていた1829年の夏、ふたりをゲッティンゲン大学へ招くという朗報が届きます。ヤーコプを正教授兼司書官、ヴィルヘルムを助教授兼副司書官にするというもので、ふたりは翌18301月に就任しました。

 

 ところが、1837年、グリム兄弟はゲッティンゲン7教授事件に連座して大学を追われ、カッセルに亡命せざるをえなくなりました。翌1839年、ふたりは『ドイツ語辞典』の編纂に着手しますが、この辞典が完結したのは何と着手から1世紀以上経った1961年でした。大学図書館で洋書の整理を担当していた経験から申しますと、ドイツには、このように気の遠くなるような辛抱強い刊行物が時たまあるような気がします。

 1841年、兄弟はプロイセン国王に招かれてベルリン大学の教授となり、亡くなるまでベルリンで暮らしました。

 

参照文献:

1ヤーコプ・グリムヴィルヘルム・グリム著、山田好司訳『グリム兄弟自伝・往復書簡集』(本の風景社2002年)