図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

近藤重蔵(こんどう・じゅうぞう 1771-1829)(書物奉行:その2)

 江戸時代後期の北方探検家として知られる近藤重蔵は、本名を守重(もりしげ)、号を正斎(せいさい)または昇天真人といい、重蔵というのは通称です。この人に言及するときによく使われているのは「重蔵」ですが、たまには「守重」を使っている例があり、190506年(明治38~39年)に出版された全集のタイトルは『近藤正斎全集』となっています。

 彼は江戸駒込幕臣の子として生まれ、6~7歳で孝経をそらんじたほど賢く、数え年17歳で仲間とともに白山義塾という私塾を開きました。自身、立派な体躯で剣の修行もしていたので、塾では文武両道を教えたということです。(1

 

 1790年(寛政2年)、父の引退をうけ、重蔵は先手組(さきてぐみ)与力という父の仕事を受け継ぎます。先手組は、江戸市中で今の警察のような仕事をしていました。これが重蔵の長い幕臣生活の始まりで、以後ほぼ10年ごとに人生の節目をむかえながら、本領を発揮してゆきます。

 1794年(寛政6年)、彼は第2回の学問吟味を受験して及第しました。幕末までつづいたこの学問吟味は、中国の科挙制度にならった筆記試験で、成績の良かった人の多くが幕府に任用されたのでした。

 その翌年から約2年間、重蔵は長崎奉行の配下として働くかたわら、日本の外交や漂流民のことなどを調べ、数冊の著作を書きます。1797年(寛政9年)、江戸に戻った重蔵は、幕府が蝦夷地(北海道)を直接統治することで外国の侵略に備えるべきだという意見書を幕府に上呈します。

 

 翌1798年(寛政10年)が重蔵の人生のひとつの節目でした。最終的には5回を数える重蔵の蝦夷地調査の第1回がこの年だったのです。第5回の利尻島調査は1807年(文化4年)でしたが、その間に重蔵はぐんぐんと出世を果たします。1803年(享和3年)には旗本役である小普請方(こぶしんかた)に昇進し、年末には「永々御目見以上」の格式を将軍から認められました。御家人の息子が旗本の役職についただけでなく、代々にわたって将軍に御目見えできる家格を得たわけですから、破格の出世と言ってもよいのではないでしょうか。(2

 この時期に書いた著作に、千島諸島の地誌である『邾弗加島考(ちゅぶかとうこう)』や北方の地理書である『辺要分界図考(へんようぶんかいずこう)』などがあり、これらは幕府に献上されました。

 

 ところが、1808年(文化5年)、重蔵は書物奉行紅葉山文庫の管理運営をつかさどる職)への転役を命じられます。これがまた彼の人生の節目のひとつでした。彼はこの職に1819年(文政2年)まで、足かけ12年間とどまり、この期間にも立派な業績をあげます。(書物奉行紅葉山文庫については、当ブログの「青木昆陽」で簡単に説明してあります。)

 その最たるものは、紅葉山文庫の蔵書を詳しく調べ、重要な書物の由来や内容、評価などを『右文{ゆうぶん}故事』や『好書故事』という著作としてまとめたことです。

 小野則秋の『日本文庫史』では、「特に近藤守重は『書籍考』、『右文故事』、『好書故事』等書誌学上の好著があり、書物奉行中出色の存在である」としています。

また、「将軍のアーカイブズ:国立公文書館所蔵資料特別展」というウェブサイトに「書物奉行に聞く」というQA形式の解説がありまして、そこでは、90名いた書物奉行の中でとくに功績が大きかったのが近藤重蔵だとして、その理由を次のように述べています。

 「近藤重蔵は、和漢の御書物を精力的に研究して紅葉山御文庫の蔵書の来歴を明らかにしたばかりでなく、研究によって得られた豊富な知識をもとに貴重書を鑑別し、その保存の仕方や取扱いを改善した。すなわち紅葉山御文庫の貴重書が今日なお良好な状態で保存されているのは、近藤の功績に負うところが大きい。」

 

 重蔵にとって最後となった人生の節目は、1819年(文政2年)3月、大坂弓奉行への転役でした。この仕事は幕府として大切な役どころでないばかりでなく、重蔵のそれまでの経歴とほとんど関係がありません。転落の始まりです。

 実績を挙げつづけた重蔵でしたが、異例の出世をしたこともあってか、左遷による恨みつらみがつのったせいか、はたまたその両方のもたらした結果か、重蔵には勝手気ままな、または身分不相応なふるまいが目立ってきます。

 ついに、1821年(文政4年)4月、「御役不相応」を理由に小普請入(こぶしんいり)となり、江戸へ戻されました。近藤家の身分は永々御目見から永々小普請入へと急落し、幕府の仕事が与えられなくなってしまったのでした。

 

 転落はさらに続きます。

重蔵はかねて江戸の槍ケ先というところに土地を買っていました。ところが売り主だった百姓の半之助という人と、土地の境界をめぐって争いが起こります。争いは裁判に持ち込まれ、重蔵が勝訴しました。けれども、気持ちの収まらない半之助は、土地の管理をしていた重蔵の息子である富蔵と悶着を起こします。怒り狂った富蔵は、当事者である半之助だけでなく、その家族など合わせて5人を殺してしまいました。1826年(文政9年)5月のことでした。

さすがにこの一件は「斬捨て御免」とはならず、富蔵は八丈島への遠島(島流し)、重蔵もいつわりの証言をしたかどで大溝藩(今の滋賀県高島市)にお預けとなり、18272月から1829年(文政12年)6月に病死するまで、そこで幽閉生活を送りました。

 

 近藤重蔵は今なお研究や伝記の対象になっていますが、小説の主人公としても描かれています。たとえば、久保田暁一『近藤重蔵とその息子』(PHP研究所、1991年)や逢坂剛「重蔵始末」シリーズ(講談社文庫、2001~17年)などです。

 

参考文献:

1長田権二郎『近藤重蔵(裳華書房、1896年)(国立国会図書館デジタルコレクション、 20181130

2   谷本晃久『近藤重蔵と近藤富蔵』(山川出版社2014年)