図書館は何かを書く場としても使われています。とりわけ大学図書館は、洋の東西を問わず、学生と教員がレポートや論文のたぐいを書く場としてよく使われています。
中には、フランスの作家シモーヌ・ド・ボーヴォワールのように、大学図書館で小説を書いた人もいます。「私は小説の筋を計画した。ある朝、ソルボンヌ大学の図書室で、ギリシア語を翻訳するかわりに「私の著書」を始め」、その後、「学士になった現在、私はソルボンヌ大学の奥の片隅に建っているヴィクトール・クーザン図書館に出入りを許された。この図書館は厖大な哲学書を蔵しているが、ほとんど誰も来る者はなかった。私は毎日ここに来て辛抱強く小説を書いた。」(ボーヴォワール『娘時代』紀伊国屋書店、1961年)
ですが、図書館で執筆した人の中で最もよく知られているのは、大英博物館図書館(今の大英図書館)で『資本論』を書いたドイツの哲学者・経済学者カール・マルクスでしょうね。
1849年以降、ロンドンを拠点とした彼は、毎日のようにその図書館へ通い、朝の9時から夜の7時まで調査と執筆に励んだのでした。というのも、定職についていなかったマルクスは貧窮にあえいでいたため、ロンドンで幼い子どもを含む家族の人数に見合うだけの、広い借家に住むことができなかったからでした。
マルクスにとってその図書館は、役立つ本がいっぱいあるところ、浮世のわずらわしさから逃れられるところ、そして結局、考えをまとめて文章化するにふさわしいところだったのでしょう。
大英博物館図書館で執筆した人をもうひとりご紹介しましょう。イギリスの作家コリン・ウィルソンです。
彼の自伝『コリン・ウィルソンのすべて 上下』(河出書房新社、2005年)によりますと、まだ無名で新婚のウィルソンは、「大英博物館までバスで出向き、その読書室で小説を書いて土曜日の午後を過ごすこともあった。これは、自分の家よりも読書室のほうがものを書くのに便利だったからではなく、自分が今ものを書いているのがサミュエル・バトラーや、カール・マルクスや、バーナード・ショーやH. G.ウェルズがそうしていたのと同じ場所なのだと思うのが楽しかったからだ。」
ということは、バーナード・ショーやH. G.ウェルズも大英博物館図書館で執筆していたということですね。
1955年、彼は出世作となる評論『アウトサイダー』を書くために、自転車で図書館通いを始めます。「日中は大英博物館で『アウトサイダー』を超高速で書いて過ごした。何年間も暖めていた作品なのだから、速く書けて当然だ。五時半からは、コーヒー・ハウスで十一時半頃までアルバイト」ということで、図書館では筆が進み、しゃれたコーヒー・ハウスでのアルバイトは面白く、なかなか充実した暮らしだったようです。
日本でも国立図書館で執筆した人がいます。十津川警部が活躍するトラベルミステリーで有名な、作家の西村京太郎氏です。
郷原宏編『西村京太郎読本』(KSS出版、1998年)に収められている西村氏の「小説を書いて四十年」によりますと、1948年に旧制中学を卒業した氏は人事院に就職しますが、30歳を前にして次のように考えます。
「退職金で一年は暮らせるから、その間に松本清張さんや黒岩重吾さんの小説ぐらい書けるだろう。よし、一年で作家になる」と。
そして、「家を出ると、上野の図書館に行く。昼すぎまでここで原稿を書く。昼からは浅草に出て、三本立ての安い映画を見て帰宅。これを毎日、繰り返した」のでした。
完成した原稿によって懸賞への応募をくりかえした末、役所を辞めて4年目に短編小説が佳作になります。以後、いくつかの懸賞に当選し、徐々に作家として認められたのでした。
蛇足ですが、「上野の図書館」というのは、現在の国立国会図書館の前身である東京図書館(その後、帝国図書館)が東京の上野にあったことから、そこへ通った人たちが親しみを込めて呼んだ俗称です。樋口一葉、南方熊楠、長谷川如是閑、宮本百合子といった人たちが「上野の図書館」という表現を使っています。
ここまでは、公立図書館が現れませんね。でも、ご心配なく。
私の好きな詩人のひとりである三好達治は、若いころ、大阪の中之島図書館に通ってファーブルの『昆虫記』約2,000枚を翻訳したそうです。(「年譜」in『三好達治』、日本図書センター、1999年)
当ブログの「あの人も図書館員だった」に登場したアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、ブエノスアイレス市立ミゲル・カネー図書館員だったとき、通勤電車の中でダンテを読み、「図書館に着くと、最初の一時間で仕事を片付けてしまい、それからこっそりと地下室に行って、残りの五時間を、本を読んだり、ものを書いたりして過ごした」ということです。また、天気が良くてあたたかい日には、図書館の屋上で読書と執筆をしたのでした。(ボルヘス著、牛島信明訳「自伝風エッセー」in 『ボルヘスの世界』、国書刊行会、2000年)
評論家・エッセイストとして息の長い活動をつづけている外山滋比古氏は、『知的生活習慣』(ちくま新書、2015年)の中で、自宅近くの区立図書館へ行って執筆するのを日課だとして、次のように書いています。
「ものを書くには、図書館が適している。うちにいると電話が鳴る。出てみると、{略}ロクな電話はない。うちにいてはダメ。図書館に限る。いっさいわずらわすものがない。以前、近くの中学生が来て私語してうるさいから注意した。そのせいかどうか、その後、来なくなった。
十分もすれば隣に人のいることも忘れて仕事に没頭できる。そうして図書館で書き上げた本がどれくらいあるか、自分でもわからない。書いていてわからぬことがあると、十歩も歩けば書架である。辞書類もわりによく揃っている。図書館は、私にとって、本を借りて読むところではなく、主として、執筆の書斎代用として役立っている。うちの書斎より仕事のはかが行くのである。」
作家の柳美里氏は、「柳美里の今日のできごと:小説家、劇作家の柳美里のブログ」(2016年3月21日)で次のように書いています。
「近頃わたしは図書館の学習コーナーで仕事をしています。
事件は、3月10日の夕方に起こりました。
わたしは、いつものように図書館で小説を書いていました。」
事件とは、書き上げた原稿用紙80枚分を送るために、画面から全文を切りとったところ、
「誤操作で全文削除してしまった」というものです。
最後に、館種不明の図書館で小説を書く人をご紹介します。桐野夏生氏の『二千章から成る小説』(新潮文庫編集部編『百年目』所収、新潮文庫、2000年)の主人公です。
定年で会社を退職した女は、退職した当日、死ぬまでずっと小説を書き続けてみようと思い立ち、帰宅後に書き始めます。75歳までに2,000章は書けるだろうと思って毎日書いていました。
「ある日、図書館で第三百三十九章を書いている時、老人が話しかけてきた。
「失礼ですが、何をお書きになっているのでしょう」
女は二千章から成る小説だ、と答えた。ほう、と老人は感嘆の声を上げた。
「あなたは小説家でしたか。私は死ぬ前に一度小説家と会ってみたかった」
老人は八十二歳。植物学者だという。女は老人に招待されて家まで遊びに行った。」
この短篇は文庫本で6ページなので、これ以上書きますと差しさわりがあるかもしれません。