ボルヘスはアルゼンチンの作家、詩人で、日本では多くの小説、詩、評論が翻訳・出版されていますが、個人全集は出ていません。
ボルヘスは、子供のころから遺伝によって目に不自由を感じはじめ、1927年を最初として何度も白内障の手術を受けたかいもなく、1950年代末から読み書きがとても不自由になってしまいました。晩年のボルヘスは、人に本を読んでもらい、口述筆記によって作品を完成させていったのでした。
1937年ごろ、30代後半のボルヘスは、ようやく定職といえるほどの職に就きます。 ブエノスアイレスにできた2番目の市立図書館であるミゲル・カネー図書館の一等補佐員となったのです。
ここで彼が担当したのは、図書の分類と目録の作成でした。「自伝風エッセー」によりますと、そこでは15人もいれば楽にできそうに思える仕事を50人ほどでやっていました。最初の日、彼がまじめに仕事をしたところ、他の人たちの4倍ほどの量をかたづけてしまいました。翌日、数人の同僚に呼び出され、「調和」を乱したら困ると言われてしまいます。
同僚は勤務時間中にサッカーや競馬の話、さもなければ猥談に花を咲かせていました。このゆるすぎる図書館で、「ある時、閲覧していた婦人が、図書館の便所で強姦されるという事件が起った。この時も連中は平然として、男と女の便所が隣接しているのだからそんなこともあるさ、といった調子であった。」(1)
1946年、フアン・ペロンが大統領に就任すると、ブエノスアイレス市はボルヘスを図書館から公設市場の検査官に異動させるという通知を発しました。彼はすぐさま理由をただしに市役所へ行ったところ、政治的な理由だと説明され、翌日(1946年8月)、辞表を出しました。
後年、ボルヘスはこの市立図書館時代を「濃厚な不幸の9年」と表現していますが、「濃厚な」の意味は、たぶん読書と執筆の時間をたっぷりと与えられたからだろうと思われます。
1955年9月、革命によって独裁者ペロン大統領が失脚しますと、ボルヘスの親友ビクトリア・オカンポをはじめとする友人やアルゼンチン作家協会その他の団体がボルヘスを国立図書館長にしようと動きます。ボルヘス自身は首都の小さな図書館の館長職にでもつければありがたいと思っていたのですが、周囲の画策が功を奏し、彼は国立図書館長に就任することになり、そこに18年間在職することになります。
アルゼンチン国立図書館にはボルヘス以前に二人の盲目の図書館長がいました。いずれも作家であったホセ・マルモルとポール・グルーサックです。ボルヘスはとくにグルーサックを敬愛しており、「最初ボルヘスは、ポール・グルーサックに倣って、図書館内に住みたいと思っていた(グルーサックはそこで暮らし、そこで亡くなったのである)。」(2)
同じ1955年、彼はブエノスアイレス大学の文学の教師職にも就任し、翌年には哲学・文学部の教授となり、1968年までその職にとどまりました。
ジェイムズ・ウッダルは、ボルヘスの妻エルサの記憶を借りて、国立図書館長時代のボルヘスの日常を描いています。(2)
それをかいつまんで書けば、次のようになります。
朝、ボルヘスは図書館へ出かけ、午後1時に戻って来ます。夫婦(ホルヘとエルサ)は昼食を摂り、そのあとボルヘスは4時半まで昼寝をします。目ざめるとコーヒーを飲んで図書館へ行き、帰宅するのは夜の8時です。そして夫婦そろってビオイ=カサレスの家へ夕飯を食べに行きます。帰宅したボルヘスは居間に腰をおろして午前2時か2時半まで本を読んでいました。ということは、まだ自力で読書できたころのことですね。
ボルヘスが国立図書館長の職を自分の意志で辞したのは、大嫌いなペロンが大統領に復帰しそうになったからででした。
市立図書館に9年、国立図書館に18年、彼はつごう27年間、図書館で仕事をしたことになります。これほど長く図書館勤めをした高名な作家は数えるほどしかいません。
参考文献:
(1)ホルヘ・ルイス・ボルヘス著、牛島信明訳「自伝風エッセー」in 『ボルヘスの世界』(国書刊行会、2000年)