図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

東海林太郎(しょうじ・たろう 1898-1972)

 東海林太郎秋田県出身の歌手で、流行歌手としては珍しく、いつも燕尾服を着て直立不動で歌いました。歌手としてのデビューが遅く、人気が定着したのは30代半ばの1934年に発売された「赤城の子守歌」と「国境の町」が大ヒットしてからです。

 

 彼は勉強も運動も得意な子どもでしたが、音楽も好きで、秋田中学を卒業するときは上野音楽学校(今の東京芸術大学)を受験するつもりでいました。ですが、こころざし叶わず、進学したのは早稲田大学でした。卒業の直前に、彼は同郷・同年齢の庄司久子(本名・ヒサ)と結婚します。彼女は太郎が目指していた上野音楽学校で声楽を学んだ才女でした。

 

 その後、早稲田大学の研究科へ進んで無事に卒業した太郎は、1923年、南満州鉄道株式会社(満鉄)に就職します。妻の久子を伴っての任地は本社のある大連、仕事は庶務部調査課でした。そこは、満州・中国をおもなターゲットにして、さまざまな調査活動を行う情報機関、シンクタンクでした。

 

 順調に仕事をこなしていた太郎でしたが、社命によって調査した結果を『満州に於ける産業組合』と題して1925年に刊行したあと、左遷の憂き目をみます。理由は定かではないのですが、刊行した報告書が左翼的すぎたという説があります。行く先は鉄嶺(遼寧省)の図書館、1927年4月のことでした。

 

 鉄嶺図書館での太郎は、音楽関係の本を読み、図書館で買ったレコードでコンサートを開くなどしていましたが、1930年8月末、満鉄の希望退職者募集に応じて図書館長の職を辞し、翌月に帰国します。

 結局、太郎の図書館勤務は3年余りにすぎませんでしたが、その図書館利用者の中に、のちに作詞家として太郎と組むことになる藤田まさとがいたということです。

 

 帰国した太郎は、事実上の二人目の妻である渡辺シズと声楽の訓練を積み、1933年に時事新報社主催の音楽コンクール・声楽部門で入賞します。翌1934年には歌謡曲「赤城の子守歌」と「国境の町」がヒットし、一躍流行歌手の仲間入りを果たしました。

 

 「赤城の子守歌」を日比谷公会堂で実演したとき、太郎がおぶっていたのがのちに大女優となる高峰秀子でした。すでに人気子役だった秀子は太郎にたいそう気に入られ、ふたりがともに休みの日には、必ず東海林家へ連れていかれるのでした。

 彼女は養女として北海道から東京へ出て、養父母と暮らしていましたが、東海林夫妻は秀子を養女として迎えたいと繰り返し養父母に求め、結局、断り切れなくなった秀子と養母は東海林家へ移り住みます。東海林夫妻が「ピアノと歌を秀子に仕込む」と約束したのが決め手になったようです。

 

 ところが、ピアノと歌のレッスンはほとんどしてもらえず、一緒に移り住んだ養母が女中並みの扱いを受け、「待望の小学校へ行けるはずだったのに、秀坊可愛さのお父さん{東海林太郎}は、とうとう演奏旅行にまで私を連れてゆくようになってしまった」のでした。

 

 秀子が11歳のとき、養母と秀子は東海林夫妻と訣別することになります。ある日、養母が、東海林太郎の妻から買ってもらった正月用の反物を女中部屋で秀子に見せたとき、秀子が爆発したのでした。そのときのことを秀子は「二人の養母の前で、「かあさん、この家を出よう。出よう! 出よう!」と、大声で叫び続けた」と書いています。

 

 このような出来事はありましたけれど、その後、太郎も秀子も、それぞれの道で多くの人に愛される芸を披露しながら人生を送ることができたのでした。

 

参考文献:

菊池清麿『国境の町:東海林太郎とその時代』(北方新社、2006)

高峰秀子「母三人・父三人」in 石井桃子高峰秀子石井桃子 高峰秀子』(文藝春秋、2012)