図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Berlioz, Louis Hector, 1803-1869)

 ベルリオーズは19世紀フランスの作曲家で、代表的な曲は、『幻想交響曲』、『ローマの謝肉祭』、『トロイアの人々』などです。

 医者の息子だったベルリオーズは、父の勧めに従ってパリで医学の勉強を始めますが、どうしても医学に興味をもてません。そんなある日、楽譜を豊富に所蔵するコンセルヴァトワール(パリ音楽院)の図書館が一般に開放されていることを知ります。作曲家グルックに関心をもっていた彼は、その図書館で「グルックの楽譜をくり返し精読し、筆写して暗記してしまった。睡眠を忘れ、文字どおり三度の食事も欠くありさまであった。無我夢中だった。」

 

 『ベルリオーズ回想録』には、真偽を疑いたくなるような話が書かれています。のちにベルリオーズが入学するコンセルヴァトワールの図書館にまつわる話です。

 当時の校長ケルビーニは、コンセルヴァトワール校内の管理を強化しました。たとえば、教授の監督下でなければ男女学生の同席を許さず、男子学生と女子学生は別の通りの門から校内へ出入りしなければならないと命令しました。

 そんなこととはつゆ知らぬベルリオーズは、女子学生用の門から入って図書館へ行こうとして小使いと悶着を起こし、その制止を振り切って図書館へ行きました。怒った小使いは校長といっしょに彼を探し出し、「私を追っかけて二人とも机のまわりをぐるぐるまわる。あっけにとられて茫然としている閲覧者の前で、主人も召使いも腰掛けや譜面台をひっくり返し大わらわ。だが、つかまえられない。」

 その後、ケルビーニは長年にわたってベルリオーズに嫌がらせをし、ベルリオーズは負けずに仕返しをしたのでした。

 

 その後、ベルリオーズはロマン派の巨匠と認められ、国内外での演奏会はおおむね好評を博していましたが、生活は楽ではありません。なぜなら、演奏者の多い交響曲の演奏会のようなばあい、写譜や演奏者への支払いにお金がかかり、会場が聴衆で満席になっても大きな利益が出るとは限らなかったからです。雑誌に音楽批評を執筆していたものの、それも大したお金にはなりませんでした。

 

 彼の数少ない定期収入源のひとつが、1839年、36歳のときに得たコンセルヴァトワール図書館員の職で、「職を得て数年後、私が英国に滞在していたときフランスに共和制が布告された。このポストを手中にしようと欲していた何人かの愛国主義者がそれを要求する好機だと判断したのだろう、私のように長期にわたって席を空ける人間はこの職に任ずべきではないと抗議したのであった。そういうわけで、ロンドンから帰国したとき私はあやうく免職されそうになっていた。幸いにもヴィクトル・ユゴーが当時人民の代表として議会に入り、彼の才能にはふさわしくないことながら、ある種の権力を保持していた。ユゴーの仲介のおかげで私はこの小さな職にとどまることができたのである。」

 彼の『回想録』は、コンセルヴァトワール図書館での役割や仕事、業績についてほとんど何も触れておらず、図書館は彼にとってわずかな給与を得るためだけの職場に過ぎなかったと思われます。

 そして、死の2年前、ベルリオーズは、受け取った手紙、写真、自分自身に関する書類などを、すべてコンセルヴァトワールの図書館で焼却したということです。

参考文献ベルリオーズ著、丹治恆次郎訳『ベルリオーズ回想録 12』(白水社1981