図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

フランツ・グリルパルツァー(Grillparzer, Franz, 1791-1872)

 19世紀に活躍したオーストリアの劇作家フランツ・グリルパルツァーは、首都ウィーンで5人兄弟の長男として生まれました。弁護士だった父親は内向的な性格で、あまり人付き合いをせず、音楽が大好きだった母親は、幼いフランツにピアノ演奏の手ほどきをしました。

 彼は、小学校レベルまでおもに家庭教師に教えられ、以後は、エリートを養成するギムナジウム(中等学校)を経て、ウィーン大学で哲学と法律を学びました。その間、彼の関心は戯曲の執筆にもひろがり、10代のうちに2篇の喜劇を書いています。

ところが、大学在学中の1809年11月、フランツが18歳のときに、父ヴェンツェルが亡くなってしまいます。幸いにも、大学の恩師の口ききによって条件の良い家庭教師先にめぐまれ、彼は窮状をしのぐことができました。

 

 家庭教師をつづけながら、1813年3月、彼はウィーンの宮廷図書館に無給実習生として入ります。『グリルパルツァ自伝』によりますと、「どうやってこの両者{家庭教師と図書館実習生}のやりくりをしたのかわからない」(1)ということです。けれども、図書館での様子は少し詳しく書いています。

 「その間わたしは宮廷図書館において熱心だと言ってもよい程忙しく働いた。当時この役所では熱心などということはあまり見られなかった。ほとんどとても人が好い役人たちは兵器庫にいる負傷兵か乾草の傍らの犬のごとく振舞い、{略}図書館の体系的な仕事など話にもならなかった。

 だが、まさにこれがわたしの好みだったのだ。わたしは自分の興味を感ずるものを読み、また研究した。」

   「勉強の邪魔をされないために、わたしたちは図書館の写本の蒐集室に行き、さまざまな便宜に囲まれて、ギリシアの作家のものを読んだ。しばらくの間こんな状態が続いたが、遂にこの図書館の司書長がこの蒐集室へ入るのを禁止してしまった。」

 初めのうちは「熱心だと言ってもよい程忙しく働いた」けれど、内情が分かってくると、不熱心な人たちと同じように振る舞ったということでしょう。

 結局、フランツ・グリルパルツァーは、1813年の3月中旬から12月中旬までの9か月間、宮廷図書館の実習生として働き、同僚とふたりでギリシア語などの勉強をしたことになります。転職のきっかけは、彼の父を尊敬していたヘルベルシュタインという伯爵が「財務の方に入りたいなら、収入の点の心配はわたしが責任を負いましょう」と勧めてくれたことでした。

 

 役所勤めによって安定した収入を得るようになったフランツは、発表する戯曲の評判がよく、20代中ごろから一気に文名が高まります。たとえば、

 1817年 『祖先の女』=初めて彼を有名にした作品の初演。

   1818年 『サッフォー』=観客の熱狂的な歓迎、数か国語への翻訳。

     また、宮廷劇場付きの作者に任命される。

 1821年 『金羊皮』=劇評家の評価が高かった作品。

 これらの作品はすべて日本でも翻訳・刊行されています。

 

 一方、フランツが28歳になった1819年1月、母親アンナが亡くなります。彼の『自伝』によりますと、病気がちだった母の症状が悪化し、周期的に精神錯乱を起こすようになってきたある日の明け方、母の面倒を見ていた下女が、ベッドに入ろうとしない母を何とかしてほしいと、フランツを起こしに来ました。行ってみますと、下女のもつ灯りに浮かんだ母は壁にもたれて立っており、呼びかけても返事をしません。抱きかかえてベッドへ連れ戻そうとした息子は、母が息をしていないことに気づいたのでした。

 これが『自伝』に書かれている顛末のあらましですけれど、訳者の注によりますと、「母親の死亡検案書には縊死となっていた」ということです。ほかの情報源でも、この件は「自殺」となっています。グリルパルツァーは母の死因を意図的に隠したのでしょうか。彼の名誉のためにつけ加えますと、次のような事実があります。

 1.彼はウィーン科学アカデミーの度重なる要請によって、自伝を書き始めた。

 2.家族、恋人、友人、同僚などにかんする言及が、皆無に近いほど少ない。

 3.これは1836年(45歳)までの前半生の記録で、その後を書き継いでいない。

 4.記録として大切な年・月をていねいに確認していない部分が多い。

 5.1853年に書かれた自伝原稿は、1872年の没後、遺稿の中から見つかった。

 だとすれば、彼は自伝を世に出すつもりがなかった、少なくとも発見された状態で原稿を人目にさらすつもりはなかった、ということになります。

 

 さて、順調に作品を発表して文名の高まったグリルパルツァーでも、オーストリアの検閲には気を使わざるを得ませんでした。彼が1826年に書いた戯曲『主人の忠実なる下僕』は1829年に初演され、観客の評判は上々でした。ところが、皇帝フランツ1世は、高名な著者と正面衝突することを回避する意図だったのでしょう、上演・印刷を禁止する目的を隠しながら、この作品の買い上げを求めました。皇帝の代理として交渉にあたった警視総監の言い草は次のとおりです。

 「あなたにもとの原稿を譲っていただき、劇場からは台本と詳しい目録が召し上げられ、これらはすべて陛下の個人図書館に収められることになります。この芝居が大変お気に召したので、お一人でこれに関するものを皆お持ちになりたいとおっしゃるのです。あなたには、ほかの劇場で上演したり、また印刷に付したりすることから生ずる筈の利益は全部補償されるでしょう。」

 これに対して、グリルパルツァーは、すでに劇場関係者が原稿を何度も書き写していて、写しはひそかに売られている、などと言って難を逃れ、印刷の許可をもらうことができたのでした。

 

 最後に、グリルパルツァーが知遇を得たベートーベンおよびゲーテとの、楽しい出会いと悲しい別れをご紹介します。

 

 楽聖と呼ばれるベートーベンは、グリルパルツァーより20歳ほど年長でした。

 1823年のある日、グリルパルツァーは、オペラの台本を書いてもらいたいというベートーベンの依頼を、人を介して受け取ります。それまでオペラの台本を書いたことのなかったグリルパルツァーは、依頼に応えるか悩んだ末、内容についてベートーベンと打合せをせずに『メルジーナ』と題する台本を届けました。

 その後、ふたりが顔を合わせたとき、ベートーベンはオペラが出来上がっていると(筆談で)言いましたけれど、その楽譜は死後にも見つかりませんでした。(2)

 4年後の1827年3月、ベートーベンがウィーンで亡くなったとき、求められて弔辞を書いたのは、上のようないきさつがあったグリルパルツァーでした。

 

 1826年の8月下旬から10月初めまで、グリルパルツァーはドイツへ旅行しました。その旅の一番の楽しみは、40歳ほど年長のゲーテに会うことでした。5日間のワイマール滞在中に、彼はゲーテに4度会っています。2度目は昼食に招かれての訪問でした。『自伝』によりますと、

 「わたしの心の奥底が感動し始めた。そして、食事となり、わたしにとってはドイツ文学の化身であり、はかり知れないほど遠く離れたところにいるほとんど神秘的な存在になっていたこの人が、手を取って食堂に案内してくれたときには、突然、子供の時代に戻ったような気持になって、涙がどっと溢れてきた。」

 ゲーテは、グリルパルツァーの帰りぎわに翌日の訪問を促します。気に入った人物の肖像画を専属の絵師にコンテで描かせていたゲーテは、グリルパルツァーをその仲間に入れようとしたのでした。この3度目の訪問の際に描かれた絵は、ゲーテもグリルパルツァーも満足できるものでした。

 宿に戻った彼は、宰相ミュラーから、その日のうちにもう一度ゲーテを訪ねるよう勧められます。けれども彼は、「一晩ずっとゲーテと二人だけでいることに畏怖を感じて、さんざんためらった末、行くのを止めてしまった」のでした。気おくれしたのですね。

 

 グリルパルツァーの後半生は、1832年から1856年まで宮廷の公文書室長を務め、結婚はしませんでしたけれど、年金を受けながら、かつて婚約を解消したことのあるカタリーナ・フレーリヒという女性と、同じ家で長く暮らしました。

 

参照文献

(1)フランツ・グリルパルツァ著、佐藤自郎訳『グリルパルツァ自伝』(名古屋大学出版会、1991年)

(2)松村國隆「グリルパルツァーの 「リブレット」 をめぐって」(『人文研究:大阪市立大学文学部紀要』第15巻第3分冊、1991年)

高橋景保(たかはし・かげやす 1785-1829)(書物奉行:その3)

 江戸幕府で天文方(てんもんかた)という役職をつとめた高橋景保は、1785年(天明5年)、大坂で生まれました。下級武士だった父の高橋至時(よしとき)は、長男の景保が誕生した2年後に、優れた天文学者だった麻田剛立(あさだ・ごうりゅう)に入門し、その6年後に天文方に就任します。

 天文方は、天体観測を行なって毎年の暦(カレンダー)をつくり、それが日食や月食などの現象と合わなくなると改暦を行なうのが仕事でした。江戸時代の4度の改暦のうち、3度目の改暦施行は、1798年(寛政10年)、景保の父至時が責任者として行なわれました。

 天文方にはもうひとつ大切な仕事として土地の測量がありました。現代の常識からすれば、暦をつくる仕事と土地測量には何の関係もなさそうですが、当時は大いに関係がありました。土地の測量によって天体観測の正確さを確かめる一方、天体観測によって土地測量の正確さを確かめていたからです。たとえば、1795年(寛政7年)、至時が大坂から江戸に出て初めて命じられた天文方の仕事は測量御用手伝いでしたし、のちに彼の監督・支援のもとで全国の土地測量をつづけた伊能忠敬は、同じ年に20歳ほど年下の至時に弟子入りしています。

 

 息子の景保は1797年(寛政9年)に江戸へ出てきて、幕府直轄の教育機関となったばかりの昌平坂学問所に通い、数年後に素読吟味というテストで好成績をおさめました。また、父の至時から天文関係の学問を教えられていました。専門職である天文方は家職として世襲されるので、父が子を仕込むのは普通のことだったのです。

 1804年(文化元年)、父の至時が40歳の若さで病死しますと、20歳の長男景保が跡を継いで天文方に任命されます。すぐに直属の上司である若年寄堀田摂津守などの信任を得た景保は、それ以降、矢継ぎ早に仕事を命じられ、次のような多方面の仕事を着実にこなしてゆきます。

 

 ①1807年(文化4年)、世界地図を作るよう命じられ、イギリス製の世界地図などを参考にして、3年後に「新訂万国全図」を製作しました。

 ②1809年(文化6年)、伊能忠敬の地図をもとに、仮の日本全図である「日本輿地図藁」(にほんよちずこう)を作成しました。「仮の」と言いますのは、北海道がほとんど描かれておらず、忠敬が測量していなかった西日本部分が概略図だったからです。

 以降、父と同様に、伊能忠敬の測量事業を監督・支援する役割をにない、1821年(文政4年)に初の精密な日本地図である「大日本沿海輿地全図」を完成させました。

 ③1809年(文化6年)、国内外の地誌を編纂する仕事のうち、外国にかんする部分を担当するよう命じられます。

 ④1810年(文化7年)、満州語を仕事として研究するよう命じられます。そのきっかけは、彼が2年前に命じられたロシアからの外交文書(満州語)の翻訳を、この年に完成したことです。以後、満州語の研究は景保のライフワークのひとつとなり、数冊の著作を刊行するにいたります。

 ⑤1811年(文化8年)、景保の建議によって天文方に蛮書和解御用(ばんしょわげごよう=蕃書和解御用とも書かれます)が創設され、その責任者となります。この掛りは、ごく簡単に言えば幕府の翻訳機関で、当初はオランダ語の達者な人を集めて翻訳の仕事をしました。

 ⑥1814年(文化11年)、天文方より格上の書物奉行を拝命し、書物奉行兼天文方となります。書物奉行は、国立図書館の管理職のようなもので、これは天文方のほんらいの職分ではありませんでした。

 なお、書物奉行とその職場だった紅葉山文庫については、当ブログの「青木昆陽書物奉行:その1)」に簡単な説明があります。また、同じく当ブログでとりあげた近藤重蔵は、1808年(文化5年)から1819年(文政2年)まで書物奉行の役にあり、6年間ほど高橋景保と同僚だったことになります。

 景保の方は、1814年(文化11年)2月の就任から死去する1829年(文政12年)2月まで書物奉行の職にありましたので、まる15年の在職ということになります。その間、数日おきに紅葉山文庫へ交替出勤をし、書物の収集に努めたほかは、近藤重蔵のようなめざましい業績を挙げることはなく、もっぱら文庫にある書物の利用者だったように思われます。

 

 このように、高橋景保はみずから天文学の研究と観測、外国語の書物や文献の翻訳を行ない、天文方、伊能測量隊、蛮書和解御用などの部下たちを統率して、それぞれの人たちが立派な業績を挙げることに貢献しました。

 これらの仕事に共通して必要とされたのが、洋学の最新の成果、つまり未見の洋書や外国の資料でした。彼我の差をよくわかっていた景保の立場であれば、「急いで手に入れなければ」という気持になるのは当然ですね。それが理由かどうか、彼は国禁を犯してしまいます。シーボルト事件です。

 

 1826年(文政9年)、オランダ商館にいたドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、商館長の江戸参府に随行しました。道中、彼は多くの日本人に歓迎されました。来日翌年の1824年(文政7年)、長崎の出島に開いた鳴滝塾の弟子や友人・知人が各地にいて、港に停泊するたびに喜んで会いに来たからです。また、助手といっしょに緯度・経度や太陽の高さなどを観測することも忘れませんでした。

 シーボルトが江戸滞在中に会った多くの人の中に、高橋景保がいました。ふたりは何度か会って情報のやりとりをするうち、お互いが欲しい資料を交換することを約束します。その結果、景保が提供した資料のうち日本地図と蝦夷地図がとくに重大な犯罪とみなされ、シーボルトが提供したのはクルーゼンシュテルンの『世界一周記』とオランダ領東インドの地図でした。

 

 この事実は秘密にされて、2年近くは何事もなく過ぎました。ところが、1828(文政11年)の春になって、シーボルトから景保宛に送られた小包の中に間宮林蔵宛のものが同封されていたことがきっかけで、景保に疑いがかけられるようになります。

 内偵を進めた町奉行は、同年10月に景保を逮捕しました。評定所(ひょうじょうしょ)での取調べに対して、景保は「国のためにしたこと」だと弁明します。取調べがつづけられる中、翌1929年(文政12年)2月、彼は獄中で病死してしまいました。その遺骸は「死罪」の判決が出るまで塩漬けで保存されたということです。

 

 この事件は高橋景保が主犯ですが、日本側で協力した(あるいは「させられた」)天文方の配下や長崎の通詞(通訳)など数十人が何らかの処分を受けています。罪が重いとされた人たちには遠島(島流し)・永牢(終身牢)が申し渡されました。

 一方のシーボルトは、長崎で何度も取調べと家宅捜索を受けた末に国外追放という処分になり、1829年(文政12年)12月に出国しました。けれども、彼はちょうど30年後に追放処分を解除されて再来日し、長崎に3年間住みながら幕府に招かれて江戸へ行くこともありました。

 

参照文献

上原久『高橋景保の研究』(講談社、1977年)

嘉数次人「江戸幕府天文学(その10)」(『天文教育』v. 21, no. 6, 2009.11)

呉秀三シーボルト先生:其生涯及功業』第2版(吐鳳堂書店、1926年)(国立国会図書館デジタルコレクション 20191010)

シーボルト記念館「シーボルトの生涯」(長崎市の同館のウェブサイト 20191019)

アンドレ・アリス・ノートン(Norton, Andre Alice, 1912-2005)

 アンドレノートンは1912年生れのアメリカのSF作家、ファンタジー作家です。アンドレという名前はふつう男性名ですけれど、この作家は女性です。と言いますのは、生まれたときの名前アリス・メアリー・ノートンを、22歳のとき(1934年)に法的にアンドレ・アリス・ノートンと改名したからです。

 異性の名前をペンネームにする理由がさまざまある中で、アンドレノートンのばあいは出版社に勧められたからでした。22歳のとき、ヨーロッパの架空の王国についての小説 “The Prince Commands” を出版する際に、エージェントから「読者は少年だし、著者の名前が男性名であれば本がたくさん売れる」と言われ、彼女はその提案を素直に受け容れたのでした。みずからの思惑や発想ではなかったのですね。

 

 彼女は5大湖のひとつエリー湖の南岸に位置するクリーヴランドオハイオ州)で生まれ育ちました。当時のクリーヴランドは大きな港をもつ工業都市として栄えていました。

 彼女は両親と17歳年上の姉との4人で暮らしていましたが、いつもプライバシーを大切にしていましたので、家庭や家族のことをエッセイなどに書くことはなく、多くのインタビューでの返答では、母親以外の家族についてほとんど触れていません。年の離れた姉は妹が学校へ通い始めるころには結婚しており、敷物商だった父親については、下の娘との接点が少なかったのかも知れないなどと、もっともらしい理由を推測できるだけです。

それに対して母親のバーサは、アンドレへのインタビューの回答でときどき言及されています。たとえば、

「母は大の読書好きで、とてもたくさんの詩を知っていて、すてきなお話をしてくれました。なので、私は学校へ入るずっと前から大きな声で読むことができました。」(1)

また、

 「金曜日の夜、家族はそろって出かけて夕食をとり、図書館へ行ったのですが、そこが遠かったので車で行かねばなりませんでした。図書館へ行って本を借りかえたのです。」(2)

 お気に入りはH. G. ウェルズやジュール・ヴェルヌなどのSFで、ほかにも冒険小説が好きでした。

 

 彼女はクリーヴランドにあった公立のコリンウッド高校で作文の指導をも受け、『コリンウッド・スポットライト』という学校新聞の文芸面の編集を任されて、みずからも作品を書いて掲載しました。

 このように幼いころから文学に親しんできたアンドレでしたけれど、将来は歴史の先生になりたいと思い、進学先として選んだのはウェスタン・リザーヴ大学のフロラ・ストーン・マザー・カレッジでした。ただし、通ったのは1930年秋からの1セメスターだけでした。不況のせいで、働かなければならなくなったからです。

 

 1932年、彼女はクリーヴランド公共図書館に職を得て、児童サービスの部署で働き始めます。同時に、クリーヴランド・カレッジ(ウェスタン・リザーヴ大学)の社会人向け夜間コースで、ジャーナリズムと作文技術を学びます。教師の夢が執筆活動の夢に変わったのでしょうね。

司書の資格はもたなかったものの、晩年のインタビューで回想しているように、彼女は職場で楽しく過ごすことができました。回想の要旨は次のとおりです。

 「私は子どもたちを相手にする図書館の仕事が好きでした。小さな女の子が入ってくると話しかけて、最近読んだ本を聞き出し、その子の気に入りそうな他の本を教えてあげたものです。それは私にとってやりがいのあることでした。」(2)

 このインタビューの中で、彼女はクリーヴランド公共図書館に勤めたのは22年間(別のインタビューでは20年間)だったと語っていますけれど、その間(1940~41年)に議会図書館での仕事と「ミステリーハウス」という書店の経営をしています。議会図書館の仕事は第2次世界大戦の勃発によって中止され、書店の経営は失敗に終わりました。

 

 このように、約20年にわたって図書館で働きながら、彼女はサイエンス・フィクションファンタジー小説を中心に執筆していました。図書館を離職したのは、医院を渡り歩いても原因の分からなかった、めまいなどが理由でした。それ以降、彼女はできるだけ動きの少ない仕事をせざるを得なくなります。

 静かな暮らしによって徐々に健康を取り戻した彼女は、ノウム・プレスという出版社の原稿査読(出版に値するか否かを判断する仕事)を10年近く引き受けながら、自分の創作に精を出せるようになってゆきます。そして、1952年に出版した“Star Man’s Son 2250 A. D.”という小説の成功が著者アンドレノートンを有名にしましたのに、彼女はまだ専業作家に踏み切ろうとはしません。そして、年齢が40代後半になった1958年に、ようやく専業作家アンドレノートンが誕生します。

 

 結婚をしたことがなかった彼女の後半生は、フロリダ州のウィンター・パークという町で、いつも原稿を読んで校正・批評をしてくれた母親、それに数匹の猫と一緒でした。

 地道に創作活動をつづけていたアンドレノートンは、1963年に『ウィッチ・ワールド』という小説を刊行し、その成功によって物語はシリーズ化されます。人気に応えて、このシリーズはほぼ40年にわたって書きつづけられました(さすがに80年代には共著者の力を借りるようになりましたけれど)。その結果、彼女はアメリカのSFやファンタジー小説などのジャンルにかんする賞をいくつも受賞し、この分野の「レジェンド」となったのでした。

 彼女の創作活動は70年の長期にわたり、その著書の数は優に100点を超えています。日本にも彼女に匹敵する女流作家がいますよね。数々の文学関係の賞を受賞し、100歳近くになっても執筆をつづけ、なお衆望を集めている瀬戸内寂聴氏です。

アンドレノートンが93歳で亡くなった2005年、アメリカSFファンタジー作家協会(SFWA)は、彼女の功績を記念してアンドレノートン賞を創設しました。

 

 ちなみに、彼女がおよそ20年間勤めたクリーヴランド公共図書館は、市の人口約38万人の2018年現在、次のような概況です。(3)

 館数=28館(中央館を含む)

 資料=図書だけで320万冊。

 財政=収入・支出ともに年間約7930万ドル(およそ85億円)。

 資料の年間増加=22万点。

 貸出=年に500万点以上(住民1人当り13.2点)。

 参考質問への回答=年に100万件近く。

 そのほか、週に5日、各館で多彩なイベントや教室などが催されていて、ほとんどの項目にびっくりマークをつけたくなります。

 

参照・引用文献

(1)An interview with Andre Norton / interviewed by Paul Walker (www.andre-norton-books.com/andre-s-life/interviews-with-andre) (accessed 20191011)

(2)The Andre Norton Oral History Project / interviewed by Sharon Faye Wilbur (ウェブアドレスとアクセス日は(1)と同じ)

(3)The Lamp of Knowledge: 2018 Report to the Community / by Cleveland Public Library (accessed 20191010)

田中克己(たなか・かつみ 1911-1992)

 日本が太平洋戦争に敗れた翌年の7月、ひとりの詩人が奈良県天理図書館に赴任しました。詩人とは、その年の2月に戦地から帰還した田中克己です。

 彼は1932年に創刊された詩誌『コギト』の創刊同人のひとりとして詩を発表する一方、第2次『四季』などにも加わっていました。雑誌に発表した作品や個人で出した詩集が、堀辰雄三好達治萩原朔太郎保田與重郎など、詩壇の主だった人たちに評価され、1941年には『楊貴妃クレオパトラ』の出版によって第5回北村透谷記念文学賞を受賞するなど、1930年代の半ばから40年代の半ばまで、詩人として絶頂期にありました。

 

 彼の就職した天理図書館は、天理外国語学校の開校と同じ年の1925年に開設された一種の学校図書館で、翌1926年から一般に開放されました。その後、学校が天理大学となって以降も大学附属図書館として一般開放の方針が維持されています。もうひとつの特徴は、宗教、アジア史、地理、日本文学、言語学などの分野の貴重な資料を数多くそろえていたことです。

 

 田中克己天理図書館への就職のいきさつを「半自叙伝」(1)に書いています。旧友たちに帰還の報告をはがきで出したところ、

 「杉浦正一郎が佐賀からたよりをよこして、その旧の勤め先の天理図書館で、東洋学関係の司書を探してゐるが、君行かないかとあるのにわたしはすぐ返事を出し、勤め先の解散したことや、東京の食糧事情をのべて、ゆく気のあることをいったのであらう。親切な杉浦はすぐ先方に連絡して、話がはじまったのである。」

 「予測し覚悟したはずの餓死が目前に迫った時、主食配給のある奈良県の、本のよめる場所への就職をすすめられたのである。わたしが「よろしくたのむ」と返事したのは当然であらう」と弁解めいて書くのは、次のような事情があったからでした。

 ①恋女房と幼い3人の子どもたちを養う立場だったこと

 ②出征前の勤め先だった亜細亜文化研究所が解散したこと

 ③東京の食糧事情が悪かったこと

 ④親しかった東京の詩友が疎開していたこと

 ⑤使いたい東京の図書館が資料疎開中や休館中だったこと

 

 この求人情報を教えてくれた杉浦正一郎は、大阪高校、東京帝大文学部で田中克己と同窓で、詩誌『コギト』を創刊した仲間のひとりでもありました。

 天理図書館との交渉は、「月収は450円位。借間の件は服部氏が世話してくれる」という図書館からの第1信で始まります。借家を世話するとされた服部氏とは、田中克己と高校・大学を通じて同窓、『コギト』同人という点でも前述の杉浦と同じで、当時、天理外国語学校の教員をしていた服部正己のことでした。

 

 ここからは、彼が毎日欠かさずつけていた日記(2)をおもな情報源としています。そこには、出かけた場所と時刻、会った人物と聞いた話、自分の具体的な仕事、買った商品と価格、贈ったり贈られたりした品物、貸したり借りたりしたお金や物、ごく簡単な感想などがこまごまと書かれています。それらは、この詩人の人となりや、敗戦直後の庶民の暮らしを知るうえで参考になりますけれど、ここでは図書館にかかわることにしぼります。なお、引用文の後の( )内は日記の年月日です。

 

 天理図書館での田中克己は、司書研究員という立場でした。着任してほぼ2か月経ったときの記述に、「登館。研究員会、年報係となる」(19460912)とあります。けれども、図書館の仕事と研究とのはっきりした区分(時間配分や職務分掌、服務規程など)がなかったか曖昧だったことは疑問の余地がありません。たとえば、

 「父の家にゆけば寺島氏よりききしとて館長の不満二点、仕事せず、勉強のみす、服装ルーズと。」(19470811)

 これによって富永牧太館長が田中克己の勤務ぶりに不満をもっていたことがうかがえますが、詩人のほうも不満をかかえて出勤していたのでした。

 「一日みなサボタージュ」「怠けて殆ど何もせず」「出勤。無為」「疲れてゐねむりせしのみ」といった記述がときどき見られますし、汽車に乗り遅れての大幅な遅刻、出勤前の散髪に加えて、知人宅に寄って将棋を指すことなどもありました。退勤の時刻も日によってばらつきがあります。

 

 司書としての田中克己が担当していたおもな仕事は、漢籍・洋書・和書の整理(分類とカード目録づくり)でした。日記にまれに書かれている仕事としては、できあがった目録カードのカードケースへの繰り込み、本の移動、出納(貸出と返却)の手伝い、ふたり一組で本の所在を確認する検書、和紙を使った古い本を害虫からまもるための曝書などがありました。

 そのほか、来客の案内・説明役、日直、月に2回の大掃除などでも特別扱いを受けることはありませんでした。

 

 陰で館長から悪しざまに言われた「勉強」はどうだったでしょうか。図書館とは関係のない個人的な読書、自分の著作として出版するつもりの『聊斎志異』やハイネの翻訳、論文の執筆、自著の校正作業などを、彼は勤務時間中にしていました。これらが「研究員」として認められていたか否かはわかりません。

 天理図書館では読書会、茶会、句会、輪読会などが行われていて、田中克己はそこへ出席したり欠席したりしていました。また、彼は命じられて講演をし、書物の解題講義をしたこともありました。

 

 その当時の天理図書館では、館員にとって大切な仕事がありました。畑仕事です。どこへ行ってもひどい食糧難の時代に、勤務先で農作業をして収穫した穀物・野菜を分配してもらえるのは、むしろ恵まれていたと言えるかも知れませんね。

 天理図書館の職員たちは、畑をたがやし、たねや苗を植え、肥料をやり、水汲みをし、雑草を抜き、収穫をしました。収穫したのは、ジャガイモ、サツマイモ、小豆、大豆、そら豆、えんどう豆、玉葱、人参、大根などです。田中克己の日記に「出勤の途、服部に寄り将棋四番」「出勤すれば草とり終り皆一寸怒る」という一節があります。(19470721)

 

 田中克己が図書館のありようや館員の言動について日記に「不快」と書き始めるのは、着任3か月後からです。館長の訓示が「不快」とか、「午後職員組合規約委員会、不快」など、不快になった理由の分かるばあいもありますけれど、「館内不快いつもの如し」(19470903)「館内いよいよ不快」(19490708)のように理由の分からないばあいも少なくありません。

 

 もともと給料が安いと思っていた上に、図書館内で何かと不満を募らせていった彼に、1948年1月からいくつかの転職話が舞い込みます。

 初めは愛知大学図書館の板倉鞆音(いたくら・ともね)からの誘いで、月給4,000円の図書館員、しばらく経ってドイツ語教員を兼ねて月給5,000円。けれども、この話は親友の服部正己にゆずります。

 以後も、大学の恩師である和田清、大学の先輩である石浜純太郎、年の近い友人・知人である羽田明(はねだ・あきら)、服部正己、外山軍治(とやま・ぐんじ)、藤枝晃といった東洋史の専門家を中心に、十指に余る人たちが彼の新しい就職口のために動いてくれました。けれども、条件が合わなかったり、踏ん切りがつかなかったりするうちに、およそ2年の歳月が流れます。

 

 彼の1949年11月3日の日記に「天理を去るの心いよいよ決す」との一文があり、その直後から事態が大きく進み始めます。

11月5日、愛知大学服部正己から、同大学の漢文教授にどうか、とのはがき。

12月2日、京大人文研の藤枝晃から、翌春に滋賀県立短期大学に昇格する予定の彦根高等女学校の校長に会うようにと電話で連絡。

年明けの1月12日、名古屋大学文学部に就職する予定の神田喜一郎から、中国文学の助教授の誘い。

 そして彼にとってありがたいことに、1950年3月中旬には、名古屋大学滋賀県立短期大学とが田中克己の争奪戦を演じます。結局、田中克己が選んだのは、先に話のあった滋賀県立短期大学教授の職でした。転職は1950年4月、彼が39歳のときで、天理図書館の在職期間は3年8か月ということになります。

 

 すったもんだの末に就職した短大でしたが、彼はそこをわずか1年で依願退職し、帝塚山学院短期大学(在職6年)、東洋大学文学部(在職1年)を経て、1959年4月に最後の落ちつき場所となる成城大学文芸学部に教授として就任します。

 なお、田中克己は、天理図書館への就職直前から退職までに、次のような図書館勤めの経験者とかかわりをもちました。氏名につづく( )内は勤めたことがある図書館ですが、図書館プロパーで活躍した人(天理図書館仙田正雄や高橋重臣など)は省いています。

中村幸彦天理図書館の同僚) = 近世文学研究。九州大・関西大等の教授

杉浦正一郎(天理図書館) = 俳諧研究。北海道大・九州大で助教

板倉鞆音愛知大学図書館) = ドイツ文学研究。愛知大・大阪市大教授

神田喜一郎宮内省図書寮) = 書誌学者。台北帝大・大谷大・大阪市大等の教授

藤枝晃(京大東方文化研究所の図書係) = 東洋史研究。京大人文研教授

 

参照文献:

(1)田中克己「半自叙伝」in『田中克己文學館』(中嶋康博氏のウェブサイト)

(2)田中克己「日記」in 『田中克己文學館』(同上)

注:

 『田中克己文學館』は、岐阜女子大学図書館の館員だった中嶋康博氏が管理運営するウェブサイト『四季・コギト・詩集ホームページ』に含まれているサイトで、氏は自らも2013年に『中嶋康博詩集』(潮流社)を出しておられます。

ルイス・キャロル(Carroll, Lewis, 1832-1898)

  不思議の国のアリス』によって知られている作家ルイス・キャロルは、1832年にイングランドのダーズベリーという緑ゆたかな村で、牧師の長男として生まれました。のちにルイス・キャロルという筆名を使うこのチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンには、ふたりの姉、8人の弟と妹がいました。

 子どものころのチャールズは牧師館をとり囲む自然との触れ合いを楽しむ一方、多くのきょうだいを楽しませる人形劇を書いたり、家庭内で読んでもらう雑誌を編集ししたりしていました。このころから、幼い子どもたちを喜ばせるのが好きだったのですね。

 

 1846年、14歳になったチャールズは、パブリック・スクール(名門私立中等学校)であるラグビー校に入学し、4年後の1849年末に卒業します。パブリック・スクールはエリートの養成を目的とする全寮制の学校で、卒業生の多くがオックスフォード大学やケンブリッジ大学に進学していました。

 当時のラグビー校にもご多分にもれずいじめがあったりして、のちにチャールズは学校が楽しくなかったと書いていますけれど、学業では好成績をおさめて首尾よくオックスフォード大学に合格します。

 

 ジャン・ガッテニョ『ルイス・キャロル』(1)などによりますと、チャールズが在籍したころのオックスフォード大学のありようは、ほぼ次の通りでした。

 所在地 = イングランド南東部のオックスフォード。

 構成員(およそ) = 学生1,400人、特別研究員500人、教授20人、合計2,000人。

 構成単位 = 独立性と個性の強い20の学寮(カレッジ)。

 学寮が共用する建物 = 図書館、博物館、教会、印刷所、講義・式典用ホールなど。

 授業担当者 = おもに各学寮に所属する特別研究員。

 

 チャールズ・ドジソンは18505月にオックスフォード大学のクライスト・チャーチ学寮への入学を許可され、翌年の1月に入寮して学生生活を始めます。あいかわらず優秀な学生だった彼は、とりわけ数学で何度も第1級の成績をおさめ、学生でありながら特別研究員となる例外的な栄誉に浴しました。

 ただ、クライストチャーチ学寮の特別研究員であるためには、いくつかの条件がありました。①独身であること、②学士号または修士号を取得すること、③学寮にとどまるばあいは聖職につくこと、などです。チャールズの父はクライスト・チャーチ出身の聖職者でしたけれど、結婚という選択によって特別研究員にとどまれなかったということです。

 そのかわり、「望まなければ教えなくともよいし、出版するとかそのほかの顕著な業績をあげることは必ずしも期待されてはいなかった。もしそう願うなら、彼は安楽椅子にゆったりと腰かけ両足をゆうゆうと暖炉にかざし、クラレット(フランス産の赤ワイン)を飲み、パイプをくゆらしながら残りの人生を過ごしてもよかった」のでした。(2

 

 チャールズ・ドジソンは怠惰な暮らしをするような人ではありません。真面目に学生を教え、学寮の事務的な仕事を引き受け、数学の論文・著作を発表し、当時はまだ珍しかった写真撮影の趣味を楽しみ、子どものためのファンタジーを書きながら、死ぬまでクライスト・チャーチ学寮で暮らしたのでした。申すまでもなく、長い休暇には親やきょうだいのいる家に戻り、リフレッシュしていました。

 彼が学部を卒業してすぐに課せられた事務的な仕事は、学寮図書館の司書補としての職務でした。数学の教師として学生を教えるかたわら、「時間が来ると彼は図書館を監督しに回り、本の目録を作るのが仕事だった」(3)ということです。この仕事は、18552月、彼が23歳のときに始まり、2年後の18572月までつづきました。

 

 チャールズが図書館での仕事を割り振られた1855年、クライストチャーチに新任の学寮長としてヘンリー・ジョージ・リデルが着任しました。チャールズより20歳ほど年長の新学寮長が連れてきた家族(妻、長男、3人の娘)のうちの次女が、のちに『不思議の国のアリス』のヒロインのモデルとなるアリスでした。

 1856年、チャールズ・ドジソンは当時まだ珍しかったカメラを手に入れ、写真撮影に熱中してゆきます。イギリスのルイス・キャロル協会による30項目ほどのごく簡略な「チャールズ・ドジソンの生涯」に、カメラを入手した18563月と撮影をやめた1880年が記載されるほど、チャールズと写真撮影は切り離せない関係にあったのでした。

 

 上司である学寮長リデルやその家族と親しくなったチャールズは、やがてリデル家を訪れたり、自分の住いに子どもたちとその家庭教師を招いたりするようになります。チャールズが子どもたちと外出するときは、「家庭教師が狙いだ」というような疑いをかけられないように、自分のきょうだいや親友のダックワースを誘うのが常でした。

 

 「夏の休暇が始まっていた186274日の午後、ドジソン、ダックワース、3人の少女が借りた船で川をさかのぼった。3人の娘たちがお話をねだった。ドジソンが話し始めると、ダックワースまでが喜んだ。登場人物の多くは実在の人物で、{アリスのふたりの姉の}ロリーナとイーディスはインコとワシ、ダックワースはアヒル、ドジソンはドードー

 その晩、帰ってきたとき、アリスが突然振り向いて、「あっ、ドジソンおじさん、私のためにアリスの冒険を書いてほしいわ」といった。ドジソンは書くことを約束した。彼はその本のために自分で絵を描いた。」(4

 このようないきさつで2年あまりかかって誕生したのが、チャールズがひとりの少女のために書き、世界に1冊しかない、手書きの文字と挿絵の本、『地下の国のアリス』でした。アリスたちを喜ばせたこの本は、やがてリデル家の客間のテーブル上に置かれて訪問者の目に触れ、正式の出版を勧められるまでになりました。

 結果、チャールズが『地下の国のアリス』の内容を膨らませ、挿絵をプロの画家にお願いし、タイトルを『不思議の国のアリス』と変えた本が、1865年に出版されました。出版にいたる過程で、著者ルイス・キャロルは、何度も挿絵の描きなおしを求めて、画家ジョン・テニエルを困らせたということです。また、初版の装幀が気に入らなかった著者が本を回収させ、別の装幀で再発行したという話も伝わっています。初めて著書を出す人の意気込みとこだわりが窺われますね。

なお、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンがルイス・キャロルという筆名を使い始めたのは、1856年に『汽車』という雑誌に詩を発表したときで、数学や論理学の論文・著書では終始、本名を使いつづけました。

 『不思議の国のアリス』は多くの読者に迎えられ、批評家たちにもおおむね好評で、それが続篇ともいうべき『鏡の国のアリス』の出版(1872年)につながりました。

 

 このようにしてルイス・キャロルは有名人になりましたけれど、その生涯をたどってみますと、有名になる、高い地位につく、お金持ちになる、といった野心とは無縁の人だったと思わずにいられません。中庸をわきまえ、誠実に職務と向きあい、穏やかな暮らしを望みつづけた人だったからです。

 

参照文献

1)ジャン・ガッテニョ著、鈴木晶訳『ルイス・キャロル』(法政大学出版局1988年)

2モートンN・コーエン著、高橋康也監訳『ルイス・キャロル伝 上』(河出書房新社1999年)

3)デレック・ハドスン著、高山宏訳『ルイス・キャロルの生涯』新装版(東京図書、1985年)

4)ロジャー・ランスリン・グリーン著、門馬義行・門馬尚子訳『ルイス・キャロル物語』(法政大学出版局1997年)

ローベルト・ムージル(Musil, Robert, 1880-1942)

 オーストリアの作家ローベルト・ムージルは、20世紀の前半にいくつかの話題作を発表したオーストリアの作家です。その代表作である『特性のない男』は、ほぼ同時期に活躍したマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』やジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』などと並んで、20世紀の小説に大きな影響を与えた作品だと言われることがあります。

 

 このうち、プルーストムージルにはいくつかの共通点がありました。社会的地位の高い父親が、堅実な職場である図書館に息子が勤められるよう手助けをしたこと、息子のほうは創作へのやみがたい思いをかかえつつ、図書館に籍を置いたこと、代表作の執筆に10年以上を費やし、結局、存命中にその完成作品を刊行できなかったこと、にもかかわらず死後にその作品の評価が高まったこと、などです。

 

 ムージルの学業としましては、中学・高校にあたる時期に陸軍のふたつの実科学校で学び、大学は父が教授をしていたドイツ工科大学へ進み、ついで急角度に方向を変えてベルリンにあるフリードリヒ・ヴィルヘルム大学で哲学と心理学を学びました。

この大学に在学中に処女作品『生徒テルレスの混乱』を書き上げ、1906年の出版にこぎつけます。この小説は評判がよく、翌年に4度の増刷を重ねるほどでしたけれど、発行元の出版社が倒産してしまいました。

 ムージルの学業は、1908年、27歳で哲学博士号を取得して終わります。

 

 1909年、30歳近くなっても腰の落ちつかない息子を案じた父アルフレートは、ローベルトがウィーンにある帝=王室図書館に就職できるよう、人を介して図書館に働きかけました。その結果、父の目論見どおりとはいきませんでしたけれど、1911年春、ローベルトはウィーン工科大学図書館の無給見習いに採用され、実務研修に従事します。けれど、初めから気乗りしなかった就職先が、案じていたとおり自分の時間を奪うのを嘆いて、彼は日記に次のように書きます。

 「3週間前から図書館勤務。耐えがたい、殺人的だ(そこにいる間はあまりにも耐えがたい)。ぼくはまた辞職して、漠然としたものの方へ方向をとるつもりだ。」(1

 そのころ、マルタという女性と結婚して一家を支える責任者となった一方、『合一』という短編小説集を出版したムージルは、いずれ文筆で身を立てることを「漠然としたものの方へ方向をとる」と表現したのでしょう。

 図書館での実務研修は次のようなものでした。

 「図書館長フェヒトナーと書記のゼートラクから、彼は新しい職業のために徹底的に<調教>された。そこで、「優秀な図書館員たるものの秘密は、任せられた書物のうちで、その標題と目次以外はけっして読まないこと」であることも学んだ。」「また、「本を並べたり、保存したり、整理したり、本の扉の誤植や誤記を訂正したりするための」文献目録や方式を学んだ。」(2

 いやいやながら出勤していたとはいえ、ローベルトはその資質と精励ぶりを評価されたのでしょう、19121月に2級司書に昇進し、給与を支給される身分となりました。

 

 2年余り図書館勤めをしていたムージルは、19135月に6週間の病気休暇に入ったのを皮切りとして、同じ年の8月末から3か月間、12月末からさらに数か月間の病気休暇を得て、図書館の仕事をほとんどしなくなってしまいました。

 191421日、彼は『新展望』という雑誌の編集者の職を得、翌日、ウィーン工科大学図書館に退職を願い出ます。結局、図書館での仕事は、見習い期間を含めて約3年間、病気休暇期間を除けば約2年間ということになります。

 

 1914年と言えば、第一次世界大戦が始まった年です。ようやく執筆活動に本腰を入れられそうになった矢先、ムージルはまた急角度に方向を変え、8月に兵役を志願します。配属されたのは歩兵連隊、入隊後3か月で中尉に昇進、体をこわして『チロル兵隊新聞』の編集者に転属、そこへ匿名で多くの寄稿、入隊後23か月後に大尉に昇進などと、191812月に軍籍を離脱するまで、ムージルは軍務に精を出したのでした。

 彼は20歳のときに志願兵として歩兵連隊に勤務した経験があり、22歳のときには予備役少尉に任命されてもいますから、故国の危急時にすすんで軍務につく覚悟はあったのでしょう。

 その後のムージル1919年から22年にかけてオーストリアの外務省や軍事省に勤め、それがいわゆる職歴の最終章となりました。ここからは、筆1本で生計を立てなければなりません。

 

 40歳代の前半、ムージルは戯曲『熱狂家たち』や短編小説集『三人の女』を刊行し、新聞・雑誌に劇評を書くなどして、作家としての地歩をかためます。『三人の女』の版元だったローヴォルト社が、1924年にムージルの既刊本の版権をすべて握り、ムージルが構想していた長編小説の前金として月に200マルクを支払う契約を結んでくれました。フランツ・カフカの著作を手がけるなどして、作家の才能を見抜く慧眼の持ち主だったローヴォルト社の社長は、ムージルの次作に期待したのですね。

 

 ところが、期待された作家の筆が進みません。193011月に『特性のない男』の第1巻が刊行されるまで、7年が必要でした。その間、ムージルはこの長編小説を新聞や雑誌に1章ずつ発表します。

日本では新聞や雑誌に小説を連載して、完結後に単行本化する例は明治時代からありまして、珍しくはありませんでした。とくに多くの読者を惹きつけた新聞の連載小説作家には、夏目漱石吉川英治がいます。けれども、ムージルのように、未発表作品の章をとびとびに新聞などに発表した例はなかったのではないでしょうか。考えられる理由はいくつかありますけれど、最も大きな理由は生活費をかせぐためだと思われます。なぜなら、長編小説の第1巻を書き上げるために心血をそそぐあまり、エッセイなどを書いて原稿料をかせぐ余裕がなくなり、結果として家計は苦しくなる一方だったからです。たとえば、193016日の日記には、「あと数週間しか生きていけない。{妻の}マルタはぼくに事態をはっきり認識させてほしいといっている」(3)と書いています。

 

 ムージルのこの窮状に、個人や団体が入れ替わり立ち替わり手を差し伸べました。

 彼を支援した個人のなかで最大の有力者だったのはトーマス・マンでした。マンはムージルより5歳年長で、ふたりは1919年に知り合っています。その後の10年余りはこれといった交流がありませんでしたけれど、『特性のない男』の第2巻が刊行されたとき、マンはある雑誌でこの長編を激賞し、プロイセン芸術アカデミーの助成委員会に対して、ムージル500~1000マルクを交付するよう訴えます。

 193810月にムージルが「露命をつなぐため、トーマス・マンに一回限りの緊急援助を懇願」(3)しますと、翌月、マンは多額の援助金をムージルに提供したのでした。

 

 『特性のない男』の第2巻は、第1巻の刊行からほぼ2年後の193212月に刊行されました。このときも第2巻に含まれるいくつかの章を刊行前に新聞や雑誌に発表し、ローヴォルト社は新聞に大きな広告を掲載したにもかかわらず、売れ行きは芳しくありませんでした。また、過去に書いた約30篇のエッセイ・評論集『生前の遺稿』(1935年刊)の売れ行きも惨憺たるものでした。

 

 このように、ムージルが追い詰められていったのには、『特性のない男』の構想の練り直しやたび重なる推敲のほかに、ナチス・ドイツによる抑圧があったことも否めません。

 初めのうちはムージルの作品を好意的に批評した人たちへの批判にとどまっていたものが、1936年以降はムージルの著作が発禁処分を受けるようになります。『生前の遺稿』の販売部数がのびなかった一因は、この本が発行の2か月後にナチス親衛隊によって発禁処分を受けたことです。

 1938年はムージルが崖っぷちに立たされた年でした。その原因は、

ドイツがオーストリアを併合したこと、

ローヴォルト社からムージルの出版権を引き継いでいた出版社がイタリアへ逃れたこと、

彼を支援していた人たちの多くが国外へ移住・亡命したこと、

ムージルと妻のマルタも8月にスイスへ逃れたこと、

ムージルの著作が「有害にして好ましからざる著作一覧」に載り始めたこと、などです。

 

 19404月、ついにムージルの全著作が「有害にして好ましからざる著作一覧」に掲載されました。翌年の9月、彼は以前から金銭的な支援をつづけてくれていたアメリカのチャーチ夫妻への手紙に、次のように書いています。

 「{スイス}国内でなんらかの所得を求めることは外国人、とりわけ歓迎されざるよそ者には厳しく禁じられています。毎度毎度さらし者になるとわかっていながら滞在許可証を更新する二、三カ月ごとに、けっしてそのようなことを試みない旨、神かけてかつ執拗な脅迫のもとに誓わなければならないのです。」(4

 収入をもたらすはずの著作を「有害」とされ、亡命の地で生計を立てようにも、身過ぎ世過ぎはまかりならぬと脅されては、立つ瀬がありませんね。

 

 ムージル1936年、水泳中に脳卒中の発作を起こし、近くにいた友人に助けられて軽い後遺症が残っただけで大事にいたらなかったことがありました。けれど、1942415日の、自宅での脳卒中の場合は助かりませんでした。

 

 私は、コリーノの『ムージル伝記 3』にある「年譜および居住・滞在の記録」の終り近くを読んでいまして、194111月、「日記の中で結婚生活を総括」、19421月半ば、「{7歳年上の}マルタに、ドストエフスキー夫人にならって夫の著作を自費出版するよう促す」という部分が気になりました。自分の死を予感していなければ、そのような行動をとらないのではないかと思ったからです。

 ムージルの研究者・翻訳者の早坂七緒氏は、ムージルに関する「脱深刻化(Enternstung)という敗北の形」という論文の中で、次のように書いておられます。

 「マルタとの結婚記念日にムージルは世を去った。筆者は自然死ではないのではないかと思い、可能な限り調査したが、医師による死亡診断書はどうしても入手できなかった。」(5

 そして注記には、かなわなかったムージルの死因究明のいきさつがくわしくつづられています。要約しますと、

2000年ごろと2006年とに、求められた費用を送金して死亡診断書{の写し}を請求したところ、初回は結果として成果ゼロ、次回は「ローベルト・ムージルの氏名と死亡日時の記された紙片」を受けとっただけ。

 2012年にはフランス語を母国語とする協力者を伴ってジュネーブの役所へ行き、渡された文書を(写真撮影はできないと言われたので)許された15分間で書き写した。それを外で待っていた協力者に見せたところ、「これは死亡診断書ではない」と言われた。

 早坂氏のいかにも研究者らしい追究に対して、スイスの警察や役所の人を食った対応が残念ですね。

 

参照文献

1)ローベルト・ムージル著、圓子修平訳『ムージル日記』(法政大学出版局2001年)

2)カール・コリーノ著、早坂七緒ほか訳『ムージル伝記 1』(法政大学出版局2009年)

3)カール・コリーノ著、早坂七緒ほか訳『ムージル伝記 3』(法政大学出版局2015年)

4)アードルフ・フリゼー編、加藤二郎ほか訳『ムージル読本』(法政大学出版局1994年)

5)早坂七緒「脱深刻化(Enternstung)という敗北の形」in『人文研紀要』78号(中央大学人文科学研究所、2014年)

広域で使える図書館カード(外国の例)

 仕事や学業のために住いとは別の自治体に通う人にとって、職場や学校・大学の近くにある図書館を利用するほうが便利なばあいがあります。それについては、このブログの「広域利用」で書きました。

 また、このブログの「図書館利用カード」では、国内の「複数の自治体の図書館で使える共通カードの例」や1枚の利用カードで全国の図書館から本を借りられる国をご紹介しました。

 ここでは、外国の例をもう少しご紹介しようと思います。いずれも、カードの入手と貸出にかんするサービスが無料のばあいに限っています。

 なお、複数の行政区域で使える図書館カードを、英語ではlibrary cardの前にone, single, common, joint, unifiedなどを付けて表現しています。

 

国全体でひとり1枚の図書館カードを使える国

(1)アイルランド

 この共和国の面積は北海道より少し狭く、人口は約480万人です。

 2014年10月30日、環境・コミュニティ・地方政府を管轄する大臣が、「市民は1枚の会員カードで、アイルランドのすべての公共図書館の蔵書にアクセスできるようになる」と発表しました。

 そして、2017年5月29日の地方自治体管理局(LGMA)のニュースは、各自がもつ地元の図書館会員カードで、国内333の公共図書館から本やDVD、ゲームを借りることができ、その他のサービスもふつうに受けられる、と報じています。

 また、首都ダブリン市の図書館・文書館局のウェブサイトによりますと、「利用者はアイルランドのどの図書館で借りた資料でも、ダブリン市のどの図書館に返却してもよい」としています。

(2)韓国

 このブログの「図書館利用カード」をご覧ください。

(3)ノルウェー

 この王国の面積は日本とほぼ同じで、人口は500万人余りです。この国での1枚の図書館カードシステムは2005年に実施され始め、ノルウェーのほとんどの公共図書館大学図書館が参加しています。

 トロンハイム市図書館のウェブサイトによりますと、ノルウェーに住んでいる15歳以上の人は全国貸出カード(National Loan Card)を無料で手に入れて国内のほとんどの図書館で使うことができると説明しています。

(4)その他(準備・努力中)

(4-1)カザフスタン

 2018年8月15日の電子版『カザフスタンプラウダ』に掲載された「カザフスタンに単一図書館カードが導入される」という記事は、国立学術図書館の館長が「私たちは今、カザフスタン中で使える単一利用者カードを作るべく作業をすすめています」と語ったと報じています。

 カザフスタンでは、2013年に高等教育機関の単一利用者カードが実施され始めましたので、公共図書館を含めての実現も可能性がありそうですね。

(4-2)ニュージーランド

 2015年7月末に開かれたニュージーランド図書館・情報協会の「図書館の未来 2015」という会合の報告書にある「未来の図書館は…」という項目に、「私たちは、利用者がニュージーランド全土のどの図書館ででも使える1枚の図書館カードをもつことになるだろう」と書かれています。けれども、4年が経った今、組織的な動きはないように思われます。

 たとえば、クライストチャーチ市の図書館は、自館の利用者に次のように呼びかけています。「休日にはあなたの図書館カードを所持していてください。なぜなら、ニュージーランドのほとんどの公共図書館から貸出を受けられますから」と。

 一方、オークランドウェリントンの図書館のウェブサイトの案内には、市外の人は滞在期間に応じた会費を払って貸出を受けたり、無料で登録して1点の貸出ごとに2ドルを払ったりすると書かれています。

 

連邦国家の州などで共通の図書館カードを使える例

(1)アメリ

(1-1)ジョージア州

 アメリカ南部のジョージア州にはPINESというボーダーレスの図書館サービスシステムがあり、そのカードを持っている州民は、州内の300以上の公共図書館の1,100万点以上の資料を利用することができます。利用には、貸出、予約、情報検索などが含まれています。(Georgia Public Library Serviceのウェブサイト、201905)

(1-2)ペンシルベニア州

 ペンシルベニア州立図書館のウェブサイトには詳細な「州規模の図書館カードシステムのためのガイドライン」が掲載されています。それによりますと、州内の住民が図書館資料を利用する機会を増やすために、直接貸出プログラムを実施するとしています。また、州政府から補助金を受けている図書館はこのシステムに参加しなければなりません。方法は次のとおりです。

 ①図書館を利用する人は、地元の図書館で使えるカードを手に入れます。

 ②州内の地元以外の公共図書館を利用したい人は、「アクセス・ペンシルベニア」というステッカーを地元の図書館からもらって、自分のカードに貼ります。

 ③地元以外の図書館から借りた資料の返却方法については、貸し出した図書館が決めます。

(1-3)ミシガン州

 ミシガン州にはMILibraryCardというプログラムがあります。このプログラムの特徴は、公共図書館だけでなく大学図書館などの学術図書館も参加している点です。

 「参加館のためのMILibraryCardガイドライン」(Suburban Library Cooperativeのウェブサイト)によりますと、このプログラムの概略は次のとおりです。

 MILibraryCardは任意参加のプログラムです。

 参加できるのはミシガン州公共図書館と学術図書館です。

 利用者は地元の図書館で自分のカードにMILibraryCardステッカーを貼ってもらいます。このステッカーを作っているのはSuburban Library Cooperativeで、この組織は参加館のリストの維持にも責任をもっています。

 MILibraryCardを使って地元以外の図書館で借りられるのは、原則として印刷資料です。けれども、個々の図書館は自館の方針によってそれ以外の資料を貸し出すことができます。

 MILibraryCardを使って資料を借りた利用者は、原則として借りた図書館へ返却しなければなりません。

 2019年5月現在、参加館リストには99館が掲載されています。ただし、デトロイト公共図書館(22館)やモンロー郡図書館システム(16館)を1館と数えての話です。なお、6館が学術図書館です。

(1-4)テキサス州

 面積が日本の2倍近くあるテキサス州では、TexShareという州規模の図書館協力プログラムが実施されています。このプログラムを管理運営しているテキサス州図書館・文書館委員会のウェブサイトによりますと、プログラムに参加している図書館の利用者は、図書館の館種(公共・大学・専門など)、規模、所在地にかかわらず、他の参加館からもTexShareのサービスを受けることができます。プログラムの概略は次のとおりです。

 参加館はテキサス州内の公共図書館と学術図書館、約500館です。

 利用者は自分の地元の図書館にTexShareカードの発行を申し込んで手に入れ、それを持参すれば、他の参加館から資料を借り出すことができます。

 参加館はそれぞれの方針にしたがって貸し出す資料の種類、点数、貸出期間を決めています。

(1-5)アメリカのその他の州

 アラスカ、イリノイ、ハワイ、マサチューセッツミネソタなどの州でも、類似のプログラムを実施しています。

 

(2)オーストラリア

(2-1)ビクトリア州

 スウィフト図書館コンソーシアムのウェブサイトによりますと、「2015年7月いらい、あなたがビクトリア州のスウィフト図書館コンソーシアムに参加している図書館の会員であれば、あなたの図書館カードはSwift One Cardということになり、スウィフトコンソーシアム・ネットワークに参加しているどの公共図書館においても、資料を借りたり、予約したり、未払い料金を払ったりすることができます」ということです。

 このばあい、共通の図書館カードを発行するのではなく、あるいは目印用のステッカーを貼るのでもなく、個々の図書館が発行する利用カードが州内のどこでも通用する、という方式ですね。

 スウィフト図書館コンソーシアムは、ビクトリア州公共図書館学校図書館、職業専門学校(TAFE)図書館による協力ネットワークのことです。利用者は、150以上の参加館の合計300万点以上の中から資料を借りることができます。

 

(2-2)南オーストラリア州

 2014年、南オーストラリア図書館局は、州の地方自治体協会および68の議会と協力して、州規模の図書館カードを導入するプロジェクトを始めました。その結果、「One Cardのおかげで、南オーストラリア州の図書館利用者は、単一のカードでどの図書館でも利用でき、400万点以上の資料にアクセスできるようになりました。」(Libraries of SAというウェブサイト)

 州の住民は、One Card Networkの参加館の図書館カードを持っていれば、州内のどこの公共図書館からでも資料を借り、それをどこの図書館にでも返却できます。ということは、ビクトリア州と同じように、カード自体を統一しているわけではないのですね。

なお、貸出期間などの条件は図書館によって異なります。

 

(3)カナダ

(3-1)アルバータ州

 アルバータ州には、全館種で通用するTAL(The Alberta Library)カードと、公共図書館だけで通用するME図書館カードがあります。

A.  ME図書館カード

 このプログラムを実施しているのはアルバータ公共図書館ネットワークで、その貸出にかんするサービスの対象は、地元の図書館カードを持っている18歳以上の州民です。

地元以外の公共図書館から本を借りたい人は、ウェブ上でME Librariesに登録するだけで、地元の図書館カードを使ってアルバータ州のどの公共図書館からでも本を借りることができます。

 このネットワークの参加館は300以上、資料は合計1,000万点以上とのことです。

B.TALカード

 TALは州規模の図書館コンソーシアムで、1997年に発足しました。そこには、公共図書館、地域図書館システム、大学図書館、カレッジおよび工学研究所図書館、専門図書館が含まれています。資料の合計は3,000万点以上とのことです。

 出発が早く、いくつもの館種の図書館が参加しているからでしょうか、この枠内で他の図書館の資料を借りようとする利用者は、使いたいと思う図書館ごとに別のカードを登録しなければなりません。ただし、他の公共図書館を使うばあいは、上記AのME図書館カードで用が足せるわけです。

(3-2)ニューブランズウィック州

 ニューブランズウィック州公共図書館のネットワークであるニューブランズウィック公共図書館サービス(NBPLS)のウェブサイトによりますと、この組織は州の担当部署、5つの地域部署、52の公共図書館、11の公立学校図書館などで構成されています。

 この州の図書館システムは、蔵書や統計と同様に公共図書館が単一の図書館カード(single library card)をも共有して、資源共有を最大限にするようにデザインされています。

 州内に住んでいる人は地元の図書館でカードを手に入れ、それを60以上の州の公共図書館で使えます。使い方は、資料を借り、コンピュータを利用し、オンライン資源にアクセスすることなどで、借りた資料はどの図書館でも返却可能です。

(3-3)ブリティッシュコロンビア州

 ブリティッシュコロンビア州のウェブサイトにある「公共図書館」の項によりますと、この州に住んでいて地元の図書館カードを持っている人は、州内の他の公共図書館を訪れて無料のBC OneCardを手に入れることができます。

 利用者は、BC OneCardを入手した図書館から資料を借り出すことができ、返却はどの公共図書館でも可能です。

 BC OneCardは、それを入手した図書館でのみ使うことができ、また、図書館で借りられる資料や受けられるサービスの範囲は、それぞれの図書館によって異なります。

(3-4)その他

 カナダでは、ほかにサスカチュワン州公共図書館のみ)やノバスコシア州公共図書館大学図書館)でも類似のサービスを実施しています。

 

(4)ロシア

(4-1)タタルスタン共和国

タタルスタンの国立電子図書館ニュース(2017年2月3日)によりますと、

 「2017年、タタルスタン共和国で単一図書館カードの実施が始まりました。すべての市民は無料で新しい図書館カードを受けとる資格があります。新しいカードを申請するためには、パスポートを持って地方自治体の図書館または州立図書館へ行く必要があります。」

 「すでに共和国の図書館カードをもっている人は新しい単一図書館カードと取り換える必要があります」とのことです。

 

(5)その他(準備・努力中)

(5-1)ウェールズ(英国)

 2015年9月4日、「ウェールズの図書館(Welsh Libraries)」というウェブサイトに、「アクセスを改善し資金を節約するための全ウェールズ図書館カード計画」という記事が掲載されました。

 ウェールズ政府が、国内のどこの図書館でも使える全ウェールズ図書館カードは地方自治体の図書館関係財政を大幅に削減できると公表したというものです。また、ウェールズ中で使える単一図書館カードは、利用者が本を国内のどの図書館からでも借りられ、どの図書館へでも返却できることを意味するとしています。

 さらに、地方自治体は徐々にこの新しいシステムを採用し、はじめはウェールズ北部の6つの自治体が2015~16年に採用するだろうとしています。

(5-2)カタルーニャ州(スペイン)

 ヨーロッパ図書館・情報・ドキュメンテーション協会事務局(EBLIDA)のウェブサイト版ニュースで、2015年3月17日、スペインのカタルーニャ州政府の図書館に関連する動きが報じられました。内容は、文化省とバルセロナ地方議会が全カタルーニャの地域図書館を支援する合意文書に署名し、具体的には次の2項目を実現するというものです。

 ①2015年中に州内の公共図書館の目録の統一を図り、2016年の前半には稼働させること。

 ②カタルーニャ全体で通用する単一の図書館カードを導入し、利用者が最初にどこで登録しようとも、どの地方の図書館でもそれを使えるようにすること。

 なお、2015年時点では、160の地方図書館のうち、わずか11が人口5,000人以上の町、120が人口3,000人以下で、後者のような小さな自治体では図書館サービスを提供する法的な義務がありません。

(5-3)スコットランド(英国)

 2017年11月、国立国会図書館のカレントアウェアネスに「スコットランド政府は、1枚のカードで全公共図書館を利用できる“One Card”プロジェクトの試行事業を開始したと発表しています」という記事が掲載されました。

 2019年6月現在、スコットランド図書館・情報評議会のウェブサイトにある”One Card”という項目では、このパイロット計画が最終的に、スコットランドのすべての公共図書館に採用されることが望ましいとしています。