図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

図書館を創った人たち(2‐2)

 公立や大学の図書館建設に際して多額の寄付をした人は、日本にもたくさんいます。ここでは、建設費の全額または大半を寄付した個人、グループ、企業、財団法人などの例をご紹介します。「多額」と確認できなかった例や、大学図書館については原則として省きました。例示は図書館名の五十音順になっています。

 情報源を記載していないばあいは、それぞれの図書館のウェブサイトによっていて、それらのアクセス時期は201902~03です。

 

(2)多額の寄付によって図書館建設に貢献した人たち(つづき)

飯塚市立図書館(福岡県)

飯塚市は、1941年(昭和16)年に図書館を開設しました。これは、実業家だった麻生太賀吉(あそう・たかきち)が、みずからの結婚を記念して寄付した土地と、建物の建設費3万円、蔵書の購入費用1万円によって実現したものでした。(麻生グループのウェブサイト「麻生の足跡」20190302)

 

伊那市創造館(長野県)

 上伊那に図書館を作ろうという動きは1921年(大正10年)、学校の先生たちから起こりました。先生たちは資金集めの努力をしましたけれど、関東大震災や冷害のため寄付がなかなか集まりません。

 そこへ武井覚太郎(たけい・かくたろう)という実業家が名乗りをあげます。ヨーロッパやアメリカへ何度も行って、図書館や社会教育の必要性を感じていた覚太郎は、「上伊那図書館建設の費用全額、14万円(現在の貨幣価値にして7億円)を私財の中から支払いました。」

 このようにして1930年(昭和5年)に開館した上伊那図書館が、現在の伊那市創造館に発展しました。

 

臼杵(うすき)市立臼杵図書館(大分県

 「臼杵市臼杵図書館は、臼杵市出身の財界人である荘田平五郎{しょうだ・へいごろう}氏が三菱を退社するに際して、郷土の文化の向上を願い、図書館建設を発案、私費を投じ建設に着手し、大正7年「財団法人臼杵図書館」として開館したのが始まりである。工事総額26,493円58銭、運営資金には、若松港株・東京海上株の配当金が充てられた。

 現在の図書館は、昭和44年、臼杵鉄工所が創立50周年を迎えるにあたり、鉄工所創立者田中豊吉氏がその記念事業として、臼杵市に新図書館の寄贈を申し出て建設、昭和45年に開館し現在にいたっている。」(国立国会図書館「レファレンス協同データベース」の参加館プロフィール)

 

越前市立図書館(福井県

 「1922年(大正11年)山本甚三郎氏から図書館寄贈の申し出があり、石造書庫3階、閲覧室2階建ての図書館建設着工。総工費約1万5千円。」

 山本甚三郎は越前府中(現在の越前市)出身の実業家でした。

 

恵那市中央図書館(岐阜県

 2007年(平成19年)、新しい恵那市中央図書館(伊藤文庫)が開館しました。鉄筋コンクリート2階建て、延床面積約2,650㎡の立派な建物で、この建設費用10億円と蔵書およそ23,000冊は、財団法人伊藤青少年育成奨学会が寄付したものでした。同財団法人のウェブサイトによりますと、「恵那市への図書館の寄贈」は理事長である田代久美子氏の永年の夢だったということです。

 

愛媛県立図書館

 愛媛県立図書館は、1902年(明治35年)に仮開館した愛媛教育協会の図書館が1935年(昭和10年)に県に移管され、愛媛県立図書館として設立認可されたものです。

 その2か月後に、伊予鉄道電気株式会社(同社社長である井上要の引退記念事業として建築)が寄贈した新築の館舎が落成します。

 

大阪府中之島図書館

 大阪府中之島図書館は、住友家第15代当主・住友吉左衛門友純(ともいと)からの寄付をもとに建設されました。友純は1897年(明治30年)に欧米諸国を訪問し、富豪が公共施設の整備などに私財を出すのに感銘を受け、自らも公共施設の建設に協力したいと考えるようになったのでした。

 1899年(明治32年)、大阪府が図書館の建設計画を発表しますと、友純は、建設費15万円と図書購入費5万円の計20万円(現在の価値で10億円)の寄付を申し出ました。この寄付金をもとに建設が開始され、1904(明治37)年に「大阪図書館」(1906年に「大阪府立図書館」と改称)が開館しました。

 なお、住友グループ広報委員会のウェブサイトによりますと、

 「興味深いのは、図書館建設の資金を提供するのではなく、図書館そのものを建築して寄贈したことだ。おそらくは、商都大阪に文化的施設を建てるのだという使命感に加え、欧米視察で“本物”を目の当たりにしてきたことで、ぜひとも自らが施主となって、その美意識を注ごうとしたのであろう」ということです。

 

岡山市立図書館(岡山県

 岡山市立図書館は、石炭貿易や輸送業で財を成した山本唯三郎(やまもと・たださぶろう)から建設資金の寄付を受けて、1918年(大正7)年に開館しました。

 「山本は、自身の財産を惜しむことなく多くの社会事業に寄付しました。岡山市立図書館のほかにも、同志社の図書館、山陽英和女学校(のちの山陽学園)の校舎、そして故郷の鶴田村には山本農学校の建設のための資金を提供したほか、後藤新平の勧めもあって鎌倉時代の絵巻物の傑作「佐竹本三十六歌仙絵巻」を一時買い支えるなどしています。」

 岡山市立図書館の開館式で来賓として出席した山本唯三郎は、教育は学校だけで行われるのではなく、図書館もあずかって力がある、だから図書館を寄付した、という意味の挨拶をしたということです。

 

喜多方市立図書館(福島県

明治33年(1900)、喜多方町は、図書館を設立するための基本金として毎年10万円余を蓄積することを可決しました。けれども、図書館はなかなか設置されませんでした。それをもどかしく思った喜多方町長の原平蔵は、自分で図書館を創ってしまいます。

 まず土地は自分の所有地、蔵書は自分と有志の寄贈、町費の補助で1913年(大正2年)に私立図書館として開館、というわけです。

 この図書館は1923年(大正12年)に喜多方町に移管され、喜多方町立通俗図書館となりました。

 

京都市図書館(京都府

 1970年代の後半、京都市は日本で人口が5番目に多い大都市で、文化都市を標榜していましたのに、なぜか市立の図書館がありませんでした。ただし、1950年から巡回文庫を走らせており、翌年に社会教育会館内に図書室を設置してはいました。

 そこへ1977年(昭和52年)、実業家の富田保治が図書館建設資金として1億円を京都市に寄付しました。寄付は以後5回におよび、総額が4億円となります。最初の寄付から4年後の1981年4月に京都市初の図書館が開館し、以後、各区に地域館が設置されていきました。

 

新発田(しばた)市立図書館(新潟県

 1927年(昭和2年)、新発田町出身の実業家、坪川洹平(つぼかわ・かんぺい)は、郷里に図書館を建てて寄贈すると町長に申し出ました。町長も議会もこの申し出を受け容れ、翌1928年秋に建設費16,000円をかけた図書館が完成します。閲覧室や書庫、事務室のほかに学習室も備えた建物だったということです。

 坪川洹平は若いころ、サラ・K・ボルトンの『貧児立身伝』に含まれているジョージ・ピーボディの伝記を読んで、自分も同じように頑張り、財を成したあかつきには彼にならって慈善事業をしようと考えたのでした。その結実のひとつが図書館の建設・寄贈だったということです。(新発田市のウェブサイト「坪川洹平:新発田図書館の寄贈者」、20190303)

 なお、ピーボディはアメリカの実業家で、生存中にかなりの数の博物館、図書館、大学を創設しています。

 

裾野市立鈴木図書館(静岡県

 裾野市立図書館には、日本ではとても珍しく、「鈴木」という個人名が入っています。それは、現在の図書館の基となったのが、同地出身の発明家でもあり実業家でもあった、鈴木忠治郎の寄付によって建てられた財団法人裾野町鈴木育英図書館だからです。

 いきさつは、次のとおりです。

 1965年(昭和40年)、鈴木忠治郎は、「勉学の志がありながら進学することのできない町民の子弟のために」1億円を基金として育英事業を始めます。事業のひとつが、設立を希望する町民が多かった図書館の新設でした。図書館の開館は1968年、名称は財団法人裾野町鈴木育英図書館、蔵書は町民や出版社の寄付・協力を受けて約6,000冊、でした。

 1990年(平成2年)、財団法人が解散するにあたり、図書館を市に寄付することになり、鈴木忠治郎の遺徳をたたえて、市は1991年から「裾野市立鈴木図書館」としたのでした。

 

◎西宮市立図書館(兵庫県

 西宮市立図書館は1928年(昭和3年)、清酒「白鹿」で知られる辰馬本家酒造(株)の社長だった第13代辰馬吉左衛門(たつうま・きちざえもん)の寄付によって建物ができました。会社のウェブサイトにある年表には、1927年(昭和2年)に「市庁舎および図書館建築費として西宮市に寄付」とあります。

 また、市立図書館のウェブサイトにある「図書館のあゆみ」には、1955年(昭和30年)、「辰馬本家酒造(株)から寄付を受け、閲覧室、書庫を増築するとともに、初めて開架式を採用」とあります。

 

沼津市立図書館(静岡県

 沼津市立図書館の始まりは1888年明治21年)にできた沼津尋常小学校の文庫(図書館)でした。その後、1952年(昭和27年)に小さな図書室ができますけれど、本格的な市立図書館はあと10年待たなければなりませんでした。1962年(昭和37年)、岡野喜太郎の4,000万円の寄付により、沼津市は鉄筋コンクリート3階建ての図書館を建設・開館し、名称を市立駿河図書館にしたのでした。

 名称に「駿河」と入っているのは、建設費を寄付した岡野喜太郎駿河銀行の会長だったからです。

 

萩市立明木(あきらぎ)図書館(山口県

 明木図書館は、1906年明治39年)、明木尋常高等小学校内に、村立としては国内最古の図書館として発足しました。その後この図書館は、1928年(昭和3年)に瀧口吉良(たきぐち・よしなが)から資金の寄付と図書の寄贈を受けて新築されます。

 彼は地方議会で長く活躍したあと、衆議院議員や銀行の頭取などを歴任した人で、ほかにも郡立図書館を萩中学校(現:萩高等学校)に創立しています。(「萩の人物データベース」20190307)

 

函館市立図書館(北海道)

 函館市立図書館の歴史は、中央図書館のウェブサイトにある「はこだての図書館」に要領よくまとめられています。図書館の建設に貢献した人たちの情報を補足しますと、次のようになります。

 明治の末ごろ、北海道の函館区に岡田健蔵というろうそく製造販売業者がいました。その地には、『函館毎日新聞』への投稿者がつくった「緑叢会」というグループがあり、そこに属していた岡田は、図書館をつくろうと提案して賛同を得ます。

 会員の協力によって1907年(明治40年)、岡田の自宅兼店舗の一角に「函館毎日新聞緑叢会付属図書室」が設けられました。これが函館市立図書館の前史となるはずでしたのに、数か月後、函館を襲った大火によってほとんどすべて焼失してしまいます。

 図書館とその蔵書の大切さを分かっていた岡田は、再び立ち上がります。函館公園内にあった公立の協同館を借り、多くの人の協力によって、2年後の1909年(明治42年)に図書館の開館にこぎつけました。名づけて私立函館図書館、運営は市民有志、建物は木造で、閲覧室、書庫のほかに食堂もあり、パン、紅茶、サイダーなどを提供していたということです。

 かねてより耐火建築の必要性を痛感していた岡田は、1916年(大正5年)、知り合いの銀行家相馬哲平に寄付を頼んで鉄筋コンクリート造りの書庫を完成させます。

 「その後小熊幸一郎{おぐま・こういちろう}の多額の寄付もあり、鉄筋コンクリート造りの図書館本館が建設され、私立函館図書館はその全てを市に移管し、昭和3(1928)年7月17日、市立函館図書館が開館しました。私立函館図書館の開館以来執事、嘱託として実質的に図書館を支えてきた健蔵は、昭和5(1930)年、正式に図書館長に就任しました。」

 小熊幸一郎は越後(新潟県)出身の漁業家でしたけれど、第2の故郷である函館のためにさまざまな公共事業に資金援助を行った人です。

 

弘前市立図書館(青森県

 弘前市立図書館は、1906年明治39年)、斎藤主(さいとう・つかさ)など5人の篤志家によって新築の図書館が市に寄付されて始まりました。蔵書は、1903年明治36年)に小学校の職員有志たちの弘前教育会が設立した私立弘前図書館から引き継いだほか、津軽古書保存会の蔵書や津軽家の文書が加えられていました。

 ちなみに、斎藤主は弘前出身の測量技師・土木技師で、図書館を新築・寄贈したのと同じころ、凶作に苦しむ西目屋村を救うために、開拓、植林、観光などの事業に手を染めています。

 

山梨県立図書館(山梨県

 山梨県立図書館は、1900年(明治33年)の山梨教育会付属図書館の開設をその始まりとしますが、30年後に独立の建物を得ます。それは、江戸時代末に甲斐国(今の山梨市)に生まれて、鉄道王と呼ばれるほど多くの鉄道会社とかかわりをもった根津嘉一郎(初代)が、1930年(昭和5年)、「鉄筋コンクリート2階建、一部3階塔屋付、総坪209坪」の図書館を寄付したからでした。

 彼は株式投資で財産をきずき、根津育英会を創設して旧制武蔵高校を創立したほか、衆議院議員をも務めました。

 

結城市のゆうき図書館(茨城県

 結城市は1992年に図書館建設検討委員会を立ち上げ、1997年に基本的な構想をまとめますと、翌1998年、同市出身の新川和江(しんかわ・かずえ)氏から図書館建設のための寄付の申し出がありました。

 図書館が開館したのは2004年(平成16年)、建物は地上4階と地下1階(駐車場)、図書館部分の面積は4,100㎡余りと、立派なものです。

 なお、新川氏は図書館の開館と合わせて詩にかんする図書約1万冊を同館に寄贈し、2004年に名誉館長となっています。

 

四日市市立図書館(三重県

 明治期、四日市の図書館は、当時の公立図書館の多くと同じように、小学校内に付設されていました。それが独立の木造建築を経て鉄筋2階建てに変わったのは、1929年(昭和4年)のことでした。地元の実業家である熊沢一衛(くまざわ・いちえ)が、昭和天皇即位の記念事業として建設し、図書2,000冊と一緒に同市へ寄贈したからでした。

 熊沢一衛は、四日市銀行頭取や伊勢電気鉄道社長を歴任した人でした。

図書館を創った人たち(2‐1)

 前回は「自らが中心となって図書館を創った人たち」でした。今回は「多額の寄付によって図書館建設に貢献した人たち」です。このばあいもいろいろなケースがありますので、特徴的な例によって動機を考えてみたいと思います。

 

2多額の寄付によって図書館建設に貢献した人たち

 最初は、ニューヨーク公共図書館の基となるアスター図書館を創ったジョン・ジェイコブ・アスター1763-1848)です。

 彼は、ドイツのハイデルベルクに近い村で生まれました。16歳になるまで彼は肉屋をしていた父の店で働き、ついでロンドンにいた兄と合流し、叔父の工場で4年間雇われていました。20歳を目前にした1783年、アメリカへ渡ります。

 その航海中に知り合った毛皮商に勧められて、アスターはニューヨークで毛皮ビジネスを始めます。インディアンから直接毛皮を買い、それを自ら売ることで、ロンドンその他で大きな利益を得たのです。その商売を勧めてくれた船上の人よりも意欲と商才があったのでしょうか、彼の交易はヨーロッパだけでなく、中国やインドにも及び、結果、莫大な財産を築きます。その準備として、1811年、彼は、アストリアと名づけた貿易の中継基地を太平洋岸のコロンビア川河口に設けていました。

 その後、アスターは毛皮貿易から手を引き、ニューヨークのマンハッタンの不動産投資に財力を注ぎ、この事業でも成功しました。「毛皮王」転じて、「不動産王」の誕生です。

 さて、莫大な財を成したアスターは、1833年、公共のために役立てたいと考えていた数十万ドルの具体的な使途について、親しくしていた20歳あまり年下のジョゼフ・グリーン・コグスウェルという人物に相談しました。彼は教育者、書誌学者で、ハーヴァード大学で図書館員を経験していて、アスターに図書館の設立を強く勧め、アスターはこの勧告を受け容れ、計画の具体化がすすめられます。

 この企ての相談に、もうひとり有名な人が加わります。『リップ・ヴァン・ウィンクル』や『スリーピー・ホローの伝説』、短篇集『スケッチ・ブック』などが日本でも翻訳出版されている作家のワシントン・アーヴィングです。彼はアスターから深く信頼されていて、貿易の中継基地アストリア実現までの困難な道のりを本にしてほしいと、翌1934年から1年をかけて懇願されたのでした。その本『アストリア』2巻は1936年に出版されています。(1

 結局、図書館を建設するとアスターが公表したのは1838年、図書館の建物が完成したのは1853年、一般に公開されたのは1854年、ただし貸出をしない図書館でした。ということは、資金を出したアスターは、図書館の完成とオープンを見ることなく亡くなったということになります。

 このアスター図書館は、1895年、レノックス図書館と合併されて(建物は別ですけれど)ニューヨーク公共図書館となりました。レノックス図書館も、富豪の息子だったジェームズ・レノックスが建てたものでした。

 ジョン・ジェイコブ・アスターのばあい、親しい人に勧められて公共のために図書館を創ったことになります。

 

 次は、鉄鋼王と言われたアメリカの富豪、アンドリュー・カーネギー18351919です。

 彼はスコットランドのダンファームリンという町で生まれました。そこは麻織物で栄えた町で、住民の大部分が織物業を営んでいて、アンドリューの父親も織物業でした。ところが、彼が物心つくころには機械織機が手織り機を駆逐し始め、家業がかたむいていきます。そこで、勉強が嫌いではなかったのに、彼は親に遠慮して8歳になるまで学校に行きませんでした。

 面白いことに、アンドリューの父ウィリアム・カーネギーは、本を買うためのお金を共同で出資するようダンファームリンの職工仲間たちを説得し、そのようにして集まった蔵書がその町で最初の貸出図書館になったということです。ベンジャミン・フランクリンよりは少し遅れましたけれど、スコットランドにも同じ発想をした人がいたのですね。(2

 貧しさに追い詰められたカーネギー家(43歳の父ウィリアム、34歳の母マーガレット、13歳のアンドリュー、5歳の弟トム)は、1848年、アメリカへ渡ります。落ちついたのはピッツバーグにほど近いアレゲニー市。そこには母方の親戚がいましたけれど、父の稼ぎだけで一家が暮らしてはいけません。母は内職をし、アンドリューも週給1ドル20セントで働き始めます。仕事は夜明け前から日の暮れるまで、生活は苦しく、アンドリューは一冬、夜学に通っただけで、学業はおしまいとなりました。

 「自分で勉強して教養を積むなどという時間はほとんどないし、また家族が貧しかったから本を買うお金もなかった」ところへ、「天からの恵みが私の上に下されて、文学の宝庫が私のために開かれた」のでした。(3

天の恵みをもたらした奇特な人は、アレゲニーに住むアンダーソン大佐で、町で働いている「青年は誰でも、土曜日に一冊借り出し、つぎの土曜日に他の本と交換して持ち帰ることができる」という夢のような話です。その個人蔵書は400冊あったということです。

アンドリュー・カーネギーは、その自伝に次のように書きます。

「自分の若いころの経験に照{ら}して、私は、能力があり、それを伸ばそうとする野心をもった少年少女のためにお金でできる最もよいことは、一つのコミュニティに公共図書館を創設し、それを公共のものとして盛り立ててゆくことであると確信するようになった。」3

 彼は、あるエッセイの中で「慈善活動に最適の分野」を7つリストアップして、①大学、②図書館、③医療センター、④公園……などとしています。また、死後に見つかったカーネギーのメモによりますと、1868年、33歳のときすでに、彼は収入の余剰分を他人のために役立てようと計画していました。そして、計画は(少なくとも図書館にかんする限り)見事に実行に移されまました。

 彼が個人として、また、死ぬまでトップであり続けたカーネギー財団として、図書館にかんして行った寄付は、英語圏の国々(アメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドなど)の図書館の建築費です。「建築費」といいますのは、寄付を受けるコミュニティが土地と図書館の運営費を用意すれば、建物の費用を出すという条件だったからです。

その数、何と2,509館。うち、アメリカ合衆国では1,679公共図書館です。(4

以上、カーネギーの幅広い慈善活動のうち、ここでは図書館建設のための寄付についてのみご紹介しました。その動機としては、次のようなことが考えられるでしょう。

父親が貸出図書館を発案して仲間と協力して実現したのを誇らしく思ったこと、アンダーソン大佐の寛大な個人蔵書開放を心の底から有難く感じたこと、能力とやる気のある子どもには図書館が最適かつ必要だと確信したこと、などです。

 

参考:

1)齋藤昇『ワシントン・アーヴィングとその時代』(本の友社、2005年)

2World Encyclopedia of Library & Information Science. 3rd ed. (Chicago, American Library Association, 1993)

3アンドリュー・カーネギー著、坂西志保訳『カーネギー自伝』(中央公論新社2002年)

4Andrew Carnegie’s StoryCarnegie Corporation of New Yorkのウェブサイト20190301

図書館を創った人たち(1)

 王侯や貴族、僧侶など特権階級の人ではなく、ふつうの人が図書館を創ろうとした動機は何だったんでしょうか。特徴的な例によって、それを考えてみたいと思います。

 

1自らが中心となって図書館を創った人たち

 18世紀の後半に活躍したアメリカの政治家・科学者であるベンジャミン・フランクリン17061790)は、凧をあげて稲妻が電気放電によるものだと証明したことで有名ですね。

一読、とても面白い彼の『フランクリン自伝』ですが、残念なことに53歳までのことしか書かれていません。その本によりますと、学校へは8歳のときに入ったラテン語学校に1年足らず通っただけなのに、彼は書物に親しみ、独学で識見をたくわえました。そして、文才と説得術とが有力者を次々と味方にしていくのに役立ち、勤勉と倹約とが経済的な成功をもたらしたのでした。

 仲間と集まって議論をし、論文を書いたりしているうちに、24歳のころ、彼は妙案を思いつきます。

みんなの書物を集めて共同図書館を作っておけば、われわれに一つところにまとめておくつもりがある限り、その間はめいめい他の会員全部の本を使用する権利がえられ、めいめいが全部の本を持っているのとほとんど変らず有益だろう」と。

この案は実行に移されたものの、本の管理がうまくできず、1年後には共同図書館は解散となりました。でもベンジャミンは諦めません。

 「さて私は初めて公共の性質をおびた計画に手を出した。すなわち、組合図書館の計画である。私が草案を作り、この町で著名な公証人ブロックデンに頼んで定款に作成し、ジャントー・クラブの友達の援助によって五十名の組合員をえた。組合員は最初に一人につき四十シリング、以後は組合が存続する予定である五十年間、毎年十シリングずつ出す規則であった。その後、組合員が百名に増加したので、法人にする許可をえた。これが今日各地に行われている北アメリカ組合図書館の元祖である。私たちの図書館そのものも大したものになったばかりか、なおも膨脹しつづけている。アメリカ人全体の知識水準を高め、平凡な商人や百姓の教養を深めて諸外国のたいていの紳士に劣らぬものに仕上げたのは、これらの図書館である。また思うに、全植民地の住民がその権益を擁護するためにあのようにこぞって抗争に立ち上ったのも、幾分かはこれが影響によるものであろう。」(1

 これは、自分たちが勉強するために本やお金を持ちよって図書館を創った例です。現在の公立図書館の原型と言ってもよいでしょう。

 

 イギリスの評論家・歴史家だったトーマス・カーライル17951881)も、仲間を集めて図書館を創った人です。彼のおもな著書は『衣装哲学』、『英雄崇拝論』、『過去と現在』などで、日本では全集(9巻)や選集(6巻)が発行されています。

 カーライルは、執筆のために必要な文献のかなりの部分を大英博物館の図書に頼っていましたが、利用するときの不便さにいつも困っていました。資料を探す手掛かりの目録が不備であり、ようやく見つけても貸出をしてもらえず、しばしば座席が見つからないために梯子の段に腰かけなければならない、といった具合だったからです。

 そこで彼は、1838年の冬、影響力のある友人に呼びかけて、本を借り出すことができる私立の会員制図書館をつくるキャンペーンを始めました。結果、1840年に「ロンドン図書館企画委員会」ができ、委員には、大学教授や貴族にまじってチャールズ・ディケンズのような作家も名を連ね、委員長にはカーライルが就任しました。

 このキャンペーンが功を奏し、ロンドン図書館は18415月に開館します。当初の会員は500名で、そのうち女性は15名にすぎませんでした。

 カーライルは直接にロンドン図書館の業務に従事したわけではありません。けれど、生きているあいだは何らかの形で運営に参画し、1870年に初代の理事長が亡くなると、実務をしないという条件で後任の理事長職を引き受けました。(2

 このばあいは、利用していた図書館の使い難さに業を煮やした人が、より使い勝手のよい図書館を創った例ですね。

 

 日本にも自分で図書館を創った人たちがいました。

まず、越後(今の新潟県長岡市)出身の大橋佐平(18361901)です。彼は家業の材木商の手伝い、酒屋の経営、明治新政府の地方役人、新聞の発行などを経験し、1887年(明治20年)に東京で博文館という出版社を立ち上げます。

博文館は数種類の大衆的な雑誌の発行によって経営基盤をかため、つづく教養書のシリーズ発刊と合わせて業績を急速に伸ばしていきました。事業が軌道に乗った1893年(明治26年)、佐平は欧米へ視察旅行に出かけて、出版や図書館の実態を目の当たりにします。以来、図書館の設立が、若いころから教育や読書に強い関心をもっていた佐平の念願となりました。

 けれども、財団法人大橋図書館を創設すると発表した1901年、佐平は胃癌におかされていて、11月に亡くなってしまいます。佐平の遺志は、博文館の経営を継いでいた3男の新太郎が全うし、木造2階建ての図書館、レンガ造りの3階建ての書庫が19026月に竣工したのでした。

 その後、この図書館は紆余曲折(たとえば関東大震災、復興、博文館の廃業、東京都庁による自発的解散の勧告など)を経て、1953年にその経営権が西武鉄道に譲渡されました。

 大橋佐平のばあいは、文化の進んでいる欧米と比べて日本には図書館の数が少なすぎるという認識が、図書館設立の動機になったと思われます。

 

次は、一般にはあまり知られていない本間一夫(19152003)という人です。

 彼は1915年(大正4年)、北海道の増毛に生まれました。経済的にはとても恵まれた家で育ちましたけれど、5歳のころ脳膜炎が原因で失明し、13歳まで学校に通うことはありませんでした。その間、家で読み聞かせをしてもらいましたので、本が大好きになります。13歳で入学した函館盲唖院(現在の北海道函館盲学校)で点字図書と出会い、外国には点字図書館があることも知りました。

 1939年に関西学院大学の専門部英文科を卒業した本間は、東京にあった視覚障碍者の施設「陽光会」で『点字倶楽部』という雑誌の編集に従事しました。

 1940年、25歳を目前にした彼は、豊島区雑司が谷にあった自宅(借家)に日本盲人図書館を創設します。「点字図書700冊、書棚4本からのスタートでした。」(3

 戦争中、本間は日本盲人図書館の蔵書と一緒に茨城県、北海道へと疎開し、1948年(昭和23年)、東京に戻って日本点字図書館と改名して仕事を再開します。以後、図書館が順調に発展するにつれて、この図書館は全国に生まれてきた点字図書館の中心的な役割をになうようになりました。また、本間自身、点字図書の普及や点字図書館の発展のパイオニアとして数々の賞を受ける栄誉に浴したのでした。

 本間一夫のばあいは、点字図書と点字図書館の必要性を身に染みて感じた行動力のある人が、同じ境遇にある人のために、(それはまた自分のためでもあったはずですが)率先して図書館を創った例になると思います。

 

 最後は劇作家・小説家の井上ひさし19342010です。彼は山形県川西町の生まれで、父親を5歳のときに亡くし、経済的には苦しい子ども時代を過ごしました。それでも、上智大学国語学部に在学中から台本作家、放送作家として活躍し始めます。その後、彼はさまざまな文学ジャンルに手を広げ、1972年の時代小説『手鎖心中』による直木賞のほか、全部で20ばかりの賞を受賞しました。

 自分の蔵書によって図書館を創るに至ったいきさつは、彼の著書『本の運命』にかなり詳しく書かれています。図書館を創る動機としては、

小説や戯曲を書く際に当面のテーマに沿った大量の本を買ったこと、

そのために自宅に本が増えすぎて困ったこと、

けれども「ある時から、本はもう一冊も処分すまいと決心」したこと、

故郷の若い人たちが本を読みたがっているのを知ったこと、

「本は全部、故郷の若い人たちに差し上げたらいいんじゃないか」と思いついたこと、

「本というのは、必要な人の手に取られることが一番幸せ」だと思ったこと、

などが挙げられるでしょう。(4

さいわい、時の町長が町の施設である農村生活改善センターの2階を図書館のために使うようにと提案してくださり、図書館づくりが具体化します。川西町の若い人たちが蔵書を引き取りに来て、開館したのは1987年、蔵書7万冊、名前は遅筆堂文庫でした。井上ひさしは筆の遅いことで有名で、自認してもいましたので、名称に遅筆堂と入れたのでした。

その後、いわゆる「ふるさと創生事業」という追い風が吹き、1994年、遅筆堂文庫は町立図書館と芝居専用の劇場とともに、美しい複合施設「川西町フレンドリープラザ」に入ることになりました。蔵書は20万冊を超えているそうです。

 

参照:

1ベンジャミン・フランクリン著、松本慎一・西川正身訳『フランクリン自伝』(岩波文庫1957年)

2ジョン・ウェルズ著、高島みき訳『ロンドン図書館物語』(図書出版社、1993年)

3)「図書館の歴史:本間一夫と日本点字図書館」(社会福祉法人日本点字図書館のウェブサイト、20190222

4井上ひさし『本の運命』(文藝春秋1997年)

ゴルダ・メイア(Meir, Golda, 1898-1978)

 イスラエルの第5代首相ゴルダ・メイアは、ロシア帝国帝政ロシア)の生れです。生地はウクライナキエフ、生年は1898年、出自はユダヤ人でした。これらの条件が彼女の人生に大きな影響を与えます。

 と言いますのは、ロシアではポグロムというユダヤ人への襲撃・虐待が19世紀後半からくりかえされ、ゴルダがまだ幼い1905年前後に、ウクライナユダヤ人がたびたびポグロムの被害に遭ったからです。ために、他の多くのユダヤ人と同じように、ゴルダの一家もアメリカへ移住しました。初めに父親がウィスコンシン州ミルウォーキーへわたって生活の基盤を確かなものにし、3年後に母と娘3人がそこへ合流します。1906年、ゴルダが8歳の時でした。

 一家が住み着いたミルウォーキーには、当時、ドイツや東ヨーロッパからの移民が多く住んでいました。父の経営する食料品店は繁盛して生活が安定し、偏見や襲撃から解放されたゴルダは、すぐ新しい土地になじみ、順調に成長してゆきました。

 

 高等学校に入学するころに教師になりたいという考えをもっていた彼女が卒業後に進んだのはミルウォーキー師範学校でした。この学校はのちにウィスコンシンミルウォーキー大学となります。

 彼女は高校在学中から、ユダヤ人の国家をパレスチナに建設しようとするシオニズム運動に強い関心をもち、師範学校在学中からその組織活動(講演、集会の準備、基金の募集など)に取り組みました。20歳になっていない人が講演をするのはやや驚きですけれど、彼女は小学生のころから人前でスピーチをする自分の才能に気づいており、またシオニズムについてよく学んでもいたのです。

 

 19172月、ゴルダはミルウォーキー公共図書館の面接を受け、3月からそこで働き始めますが、わずか6か月間仕事をしただけで退職し、シカゴへ移ります。ところがシカゴ公共図書館をたった6週間で退職し、ミルウォーキー公共図書館に復帰しました。そこを19183月に退職しますと、以後、彼女が図書館で働くことはありませんでした。合わせて1年間ほどの図書館員生活となります。

 

 その間、高校生のときに出合ったモリス・マイヤーソンという青年から、ゴルダは結婚したいと迫られつづけていました。シカゴから戻った191712月、ゴルダはミルウォーキーでモリス青年と結婚します。ふたりの間には、お金を貯めてパレスチナへ行き、現地でシオニズム活動をする約束ができていました。それが実現したのはゴルダが若干20歳、19213月のことでした。

 

 パレスチナでのゴルダ・マイヤーソンは、約3年間のキブツ生活を経験します。キブツとは、イスラエル独特の農業共同体のことで、そこでは100人前後から1000人をこえる人びとがひとつの単位となってキブツを構成し、彼らは財産を共有し、農業を中心に平等に働き、育児を共同で行うなど、他に類を見ない暮らしをしていました。このキブツは(当初とはかなり性格を変えながら)現在も存在し続けています。

 

政治的な経験を積んだゴルダは、19485月にイスラエルが建国宣言を発表するときには、宣言の署名者のひとりに選ばれるほど、周囲の信頼を得ていました。さらに、新国家の誕生後、1948年に初代のソ連駐在大使、1949年に国会議員と労働大臣、1956年に外務大臣1963年に首相というふうに年を経るごとに重要なポストを任されるようになったのでした。

 イスラエルは、建国いらい、周囲のアラブ諸国4度の大規模な武力衝突をしました。中東戦争とかアラブ・イスラエル紛争とか言われているこの武力衝突のうち、第2次から第4次まで、ゴルダ・メイア外務大臣や首相としてかかわり、たびたびアメリカに支援を要請せざるをえませんでした。最後の大規模な武力衝突となった第4次では、勝利を得たものの、緒戦に喫した敗北の責任を取らされる形で、1974年に首相を辞任したのでした。

若いころからとても意志の強かったゴルダ・メイアという人は、長じてからも信念の人、鉄の宰相でありつづけたのだと思います。

 

参照:

1ゴルダ・メイア著、林弘子訳『ゴルダ・メイア回想録:運命への挑戦』(評論社、1980年)

2Goldie Mabowehz (Golda Meir), from the Milwaukee Public Library to Prime Minister of Israel / by MPL staff on Mar 15, 2017 (Milwaukee Public Libraryのウェブサイト20190214)

ローラ・ブッシュ(Bush, Laura Lane Welch, 1946‐)

 第43アメリカ合衆国大統領ジョージ・ブッシュ氏の夫人として知られるローラ・ブッシュ氏は、1946年、テキサス州のミッドランドという町で生まれました。両親は彼女のあとにも何人かの子どもを授かりましたけれど、どの子も生まれて間もなく亡くなったため、彼女は一人っ子として育ちます。

 父は会社員として勤めるかたわら、彼女が物心ついたころから副業として住宅建築を手がけました。『ローラ・ブッシュ自伝』には、いくら頼まれても注文建築を断ったこと、建てたばかりでまだ売れていない家に引っ越しを繰り返したこと、などが書かれています。面白いお父さんだったのですね。

 母は読書が好きで、幼い娘が自分で本を読み始めるまでは、いつも読み聞かせをしてくれたのでした。本はミッドランドの郡庁舎の地下にあった図書館から借りてくることが多かったということです。

 

 両親のいつくしみに包まれて育った彼女は、中学・高校と学校が大好きで、成績のよい真面目な生徒でした。でも、いつも本が読みたくてたまらず、数学の授業では、机の上の教科書の中に隠した本を読んだことがありました。

生活を楽しむ点でも彼女に抜かりはありません。10代の前半からデートを始め、週末にはパーティや映画にでかけ、高校のフットボールの応援に行くなど、青春を謳歌する女の子だったように思われます。

 

ところが、17歳になったばかりのある日の夜、おそらく彼女にとって生涯でただひとつの痛恨事ともいうべき事件が起こります。女友だちを乗せて車を運転中に、話に夢中になっていた彼女は、一時停止の信号を見落とし、衝突事故を起こしてしまったのでした。自分たちはそれほど重傷でなかったのに、相手の車を運転していた同じ高校で仲良くしていた男の子が亡くなったのです。彼女は長いあいだこの件で悩みましたけれど、両親や親しい人たちの思いやりで少しずつ立ち直ることができたのでした。

 

 1964年、彼女はダラスにあるサザン・メソジスト大学に入学し、ここでも生活を満喫しながら教育学を学びました。けれども、周囲の多くの女子大生と同じく大学を卒業するまでに結婚するつもりでいて、彼女の気持ちは就職に向かっていません。

 ために、プールでの水泳コーチ、サマーキャンプでのカウンセラー、小学校の教員、証券会社の社員など、短期間にいくつもの仕事を経験します。たどり着いた結論は、司書になることでした。

 

 アメリカでの司書資格取得には、大学院で図書館学の講座を受講する必要があります。彼女が選んだのはテキサス大学オースティン校の図書館学スクールで、1973年に修士号を取得しました。

 彼女の司書としての最初の任地はヒューストンの公立図書館でした。

 「私が配属されたのは、ヒューストンのアフリカ系アメリカ人居住区にある、線路と産業ビルに挟まれたカシミア・ガーデンズ・ネイバーフッド図書館。ミステリー小説を探すビジネスマンではなく、本を探しに来る家族連れの面倒を見、学校が終わるやいなや図書館は、他に安全な行き場のない子供達であふれか{え}った。事実上、私は彼らの世話係になったのだ。子供達に読み聞かせをし、アクティビティを考え出し、教室に本を貸し出すために地元の小学校を訪れるようになっていた。図書館が静かな時間帯には本を読んだ。」(1

 

 でも、オースティンという町と学校という職場が懐かしくなった彼女は、1974年夏にヒューストンの公立図書館を退職し、オースティンで職探しを始めます。見つかった新しい職は、「モリー・ドーソン小学校の図書館司書としての仕事であり、そこは主にヒスパニック系が住む地域だった。一日の大半を子供と本に囲まれる日常に戻り、受け持つ授業は大好きなお話の時間となった。」

 結局、彼女は「一九六八年から、ジョージと結婚する一九七七年の十一月まで」「教師と図書館司書として働いていた」ことになります。

 

 1977年、ローラ・ウェルチ嬢は、友人の夫に紹介されたジョージ・ブッシュ氏と結婚します。当時のブッシュ氏は石油関連の会社員、その父親はのちに大統領となるジョージ・HW・ブッシュで、すでに下院議員やCIA長官を経験していました。

 息子のジョージは1979年の上院議員選挙に立候補して落選します。代わりというわけではありませんけれど、1981年、父親のジョージがロナルド・レーガン大統領に請われて副大統領に就任します。

 

 以後のおよそ10年以上、若いジョージは石油関連会社の立ち上げやプロ野球球団テキサス・レンジャーズの買収と共同経営など、事業面で成功をおさめる一方、父ブッシュの大統領選挙では妻とともに応援に駆けつけ、スピーチライターをこなすなどして、政治面でも力をつけていったのでした。

 息子ブッシュにとって機が熟したのでしょう、彼は1994年のテキサス州知事選挙に勝利し、翌1995年、知事に就任します。

 夫が大きな州の知事になったのに、ローラは妻としてずいぶん自由に過ごすことができたということです。家族の暮らしぶりも以前と変わらず、夕食はほとんど双子の娘と一緒に4人で食べることができたのでした。

 

 ところが、1998年、夫が州知事選で圧倒的な支持を得て再選されますと、(家庭的には)皮肉なことに、事情が変わってしまいます。あまりの圧勝ぶりに、彼が2年後に行われる予定の共和党大統領選挙の本命に浮上したからでした。以来、妻のローラも夫の選挙にさまざまな協力・貢献をし、2000年の大統領選挙でついに大接戦の末、ジョージ・ブッシュ氏は民主党のゴア候補に勝ったのでした。

 

 20011月、ローラ・ブッシュ氏はファースト・レディとなり、家族とともにホワイトハウスで暮らすようになります。ここに住めば、いわゆる主婦業はかなり軽減されますけれど、その代わり、ほとんど義務ともいえる公式行事への参加やパーティへの出席のほか、議論を二分しないようなテーマでの活動をしなければなりません。彼女が取り組んだテーマは教育、図書館、女性の権利向上などいろいろありますが、ここでは図書館に関係するものを2つご紹介して結びとします。

 

1)ローラ・ブッシュ米国図書館財団の設立

 ファースト・レディとなった彼女は、2002年、親しい友人の協力を得て財団を設立しました。そのウェブサイトによりますと、

 「国内をまわって学校と図書館を訪れ、多くの学校図書館の書架がからっぽで、蔵書と参考図書{調べものをするための本}がおそろしく時代遅れだと気づきました。それがローラ・ブッシュ米国図書館財団を設立した理由」だということです。(2

 この財団は毎年、学校図書館や読書の推進のためにさまざまな助成を続けて現在にいたっています。

 

2)ナショナル・ブックフェスティバルの開催

 アメリカ議会図書館の「ナショナル・ブックフェスティバル」に関するウェブサイトによりますと、このお祭りはローラ・ブッシュ氏の提案によって、彼女と当時の議会図書館長JH・バイリントンが協力して始めました。資金は個人の寄付とスポンサー企業の拠出金によっています。

このフェスティバルでは、さまざまなジャンルから多くの作家が参加して自著にサインをしたりスピーチをするほか、お祭りらしく、本の即売会や子どもが喜ぶイベントも開かれます。

 第1回は20019月に開催され、今年(2019年)も開催される予定で、2014年には参加者が20万人をこえたということです。(3

 

参照:

1)ローラ・ブッシュ著、村井理子訳『ローラ・ブッシュ自伝』(中央公論新社2015年)

2www.laurabushfoundation.com/ (20190210)

3www.loc.gov/bookfest/ (20190210)

遊びの場としての図書館

 公立図書館は、さまざまな催し(行事・イベント)を通じて住民を図書館に惹きつけようと努めています。催しの中には講演会や講座、相談会など、遊びや趣味の要素の少ないものもありますけれど、最近の催しの傾向としては、種類が増えている、遊びや楽しみの要素が色濃くなっている、と言えます。

 つまり、最近の公立図書館には、遊びの場、趣味の場、読書以外でも楽しめる場、いくつかの催しを組み合わせた祭りの場、となっている例が少なからずあるということです。ただし、図書館の催しは、展示などを除けば毎日行われているわけではなく、定番の子ども向けおはなし会などでも、週に1日がふつうです。

以下、いくつかのパターンに分けて、実例を挙げながらご紹介します。なお、以下の引用は各図書館のウェブサイトからで、時期は201901~02です。

 

見て楽しむ

◎マジック(手品)

 演じてみせるだけのばあいと、簡単なものを教えるばあいとがあります。

バルーンアート(風船を使う造形)

 マジックと同じく、見せるだけのばあいと、教えるばあいとがあります。

鉄道模型

 和泉市立シティプラザ図書館(大阪府)では、毎週日曜日の午前と午後の1回、各10 分間、「ジオラマ・トーマスが動きます。」

 

聴いて楽しむ

◎落語(寄席)

「新春」「恒例の」「真夏の」などという枕詞つきの落語会が各地の図書館で開かれています。なぜか、漫才はほとんどありません。

◎演奏会・コンサート

ミュージシャンやアーティストが生出演するものです。池田町図書館(岐阜県)ではカントリー・ミュージックやジャズのコンサートを開いてきました。

◎おはなし会

図書館のイベントの中で最もポピュラーな定番です。多くは乳幼児がターゲットですけれど、最近は「大人のための」とか「外国語の」などという枕詞つきのおはなし会が現れています。おはなし会はストーリーテリングとも言われていまして、話し手が物語を暗記しておいて語り聞かせるものです。

◎読み聞かせ

絵本や短いおはなしを読み聞かせます。朗読会も似たようなものですが、こちらはどちらかと言えば聞き手の年齢層が高くなります。中には「大人のための」と銘打った朗読会もあります。

ほかに、数は多くありませんけれど、講談、対談、昔話(民話)などを聞かせるプログラムもあります。クリスマス会ではハンドベルの演奏を聴ける図書館もあります。

 

視聴して楽しむ

◎紙芝居

図書館の児童サービスの定番のひとつです。紙芝居は日本独特のもので、かつては紙芝居屋さんが街を回っていました。

◎映画会

YouTubeなどの動画が気軽に見られるようになっても、相変わらず公立図書館でつづいている人気プログラムのひとつです。

◎パネルシアターやエプロンシアター

パネルシアターは、大きなパネルに人や物、動物などを貼りつけながら話を進めるものです。エプロンシアターは、パネルの代りに、演じる人が着けたエプロンに人や物、動物などを貼りつけながら話を進めるものです。いずれも節をつけたり歌を取り入れたりします。

◎人形劇

 立体的な人形が活躍する劇です。操り人形、指人形などがありますが、パネルシアターやエプロンシアターと比べると手間がかかります。それでも、旭川市図書館(北海道)、東京都の多くの区立図書館、大阪市立図書館、三木市立図書館(兵庫県)などで公演が行われています。

◎腹話術

 最近は、仙台市図書館(宮城県)や宮崎市立図書館で公演が行われました。

 

歌って楽しむ

 幼児が歌いながら手遊びをする催しは、各地の公立図書館で行われています。「むすんでひらいて」は誰でも知っていますよね。

変わった催しとしては次のような例があります。

 2017年12月、田原(たはら)市立図書館(愛知県)は、中央図書館15周年記念イベントで、「うたう図書館」というワークショップを催しました。これは、「音楽家野村誠さんと一緒にオリジナルの歌を作ります。中央図書館の中で、普段は出せない大きな声で歌ったり、自由に意見を出し合ったりして、みんなで楽しく遊びながら歌作り。作った歌は、12月23日(土)の「うたう図書館フェス!」で発表!」というものでした。

 

描いて楽しむ

 多くは教室という形をとっています。描くのは、まんが、イラスト、ぬり絵、絵本などです。

 珍しい例としては、2015年6月、札幌市中央図書館が開催した「タブレットPCでオリジナル絵本をつくろう!」というイベントがあります。対象は5歳から8歳くらいまでの子どもとその保護者です。絵を描き、録音(吹き込み)とプリント、製本までを自分たちで仕上げて、持ち帰ることができたそうです。

 その後、デジタル絵本づくりの催しは今年(2019年)まで札幌市のえほん図書館でつづけられています。

 

作って楽しむ

 公立図書館で何かを作る催しは、多種多様です。多くは工作教室とか科学教室(科学遊び)という形をとっていますけれども、イベントのひとつに組み込まれているばあいも少なくありません。よく作られているのは、次のようなものです。

◎本に関するもの

 絵本(紙・布・デジタル)、紙芝居用の舞台、しおり、製本、図書館バッグ、ブックカバー、豆本など。

◎おもちゃ

 折り紙、紙飛行機、かるた、切り絵、こま、人形、布の遊具、万華鏡など。

◎その他

 アクセサリー、(壁やツリーの)飾り、カレンダー、ケーキ、写真立て(フォトフレーム)、チョコレート、ラジオなど。

 とても珍しい物づくりとしては、三島市立図書館(静岡県)の紙堆朱(かみついしゅ)づくりがあります。紙堆朱というのは、色つきの画用紙を重ねて貼り合わせ、それを彫刻刀などで彫ってかわいらしい小物にするものです。2017年10月に催され、小学校の高学年生が対象でした。

 

組み立てて楽しむ

 積み木とレゴが、組み立てて楽しむありふれた遊びです。

 都農(つの)町民図書館(宮崎県)には「からからつみきコーナー」があります。ここでは宮崎の杉の木の「からからつみき」を使って、0歳から大人まで、また一人でも多人数でも楽しめるということです。「からからつみき」とは宮崎産の杉の細長い板状の積み木。

 

からだを動かして楽しむ

 手遊びや指遊び、リズム遊び(リトミック)は、幼い子どもを対象として、図書館でもよく行われてきたものです。

 あやとり、けん玉、玉入れ、羽根つき、福笑い、ヨーヨー、輪投げなどの昔懐かしい遊びが、図書館まつりやお正月のイベントなどで行われています。

ダンスは最近になって登場してきた図書館での遊び・楽しみです。たとえば、

大阪府立中央図書館は、2007年2月に第1回の「若者ダンス・カーニバル」を開催し、今年(2019年)までつづけています。出場チームは年度によって異なりますが、2019年度は49チームの予定となっています。午前・午後の審査時間中に「図書館紹介タイム」を設けて図書館のPRをしています。といいますのは、当初からの目的が、10代の若者にもっと図書館に来てもらうことだからです。

名護市立中央図書館(沖縄県)は2019年1月、「ハワイ出身のサラ先生と英語でしゃべりながらハワイアンフラを踊」る「ハワイアン・フラ」という、だれでも参加できる催しを開いています。

遊びや楽しみとは逸れますけれど、健康維持・病気予防を目的としたストレッチや体操をする催しがあちこちの公立図書館で開かれています。大和市立図書館(神奈川県)の「首と肩こり予防のお話と体操」、練馬区立図書館(東京都)の「お口すっきり体操講習会(ストレッチ)」、福岡市東図書館の「認知症予防~コグニサイズを体験してみよう~」などがその例です。

 

競って楽しむ

◎将棋・囲碁・オセロ

 和室やたたみコーナーのある公立図書館に将棋や囲碁のセットが鎮座している景色は、かなり以前から見ることができました。豊岡市立図書館本館(兵庫県)では囲碁3セット、将棋4セット、オセロ2セットを用意していて、「いこいの間」と「いこいの庭」で利用することができます。

ボードゲーム

最近では、各種のボードゲームが図書館に登場しています。たとえば、

大津町立おおづ図書館(熊本県)は2018年4月から18種類のボードゲームを用意していて、13種類は館外貸出可能、5種類は館内利用としています。対象年齢は、3歳以上から大人まで。

◎伝統的な遊び

 かるた、百人一首、すごろくなどが、公立図書館のイベントで行われています。かるたは、郷土かるた(ふるさとかるた)が伝わっている地方もあって、この3種の中ではいちばん人気があるように思われます。

◎その他

 クイズ、コンクール、ビブリオバトル、ビンゴ、チェスなどのうち、前の3種は図書館でときどき見かけます。後の2種のうち、チェスは(欧米の公共図書館では古くから親しまれてきましたけれど)日本の公立図書館で見かけないと言っても過言ではないでしょう。

 

非日常の体験を楽しむ

図書館を知ってもらうための企画には、図書館見学(探検)・図書館の仕事体験、1日図書館員などがあります。

体験型のイベントとしては、次のようなものがあります。

生け花、お化け屋敷、音読(教室)、蚕とのふれあい(糸取り)、影絵、ぬいぐるみお泊り会、フェイスペインティング、変身体験(物語などの登場人物の衣裳を着て写真撮影)など。

 

あれもこれも楽しむ

例1:大河原町駅前図書館(宮城県)は、2019年1月に「お正月の遊びとお話の会」を開催しました。遊びは、「ゴム鉄砲・おはじき・あや取り・カルタとり・羽子板・お手玉・ふくわらい・コマなどで、昔なつかしい遊びを体験してみませんか?」というものです。

 

例2:豊川市中央図書館(愛知県)の図書館まつり

 豊川市中央図書館(愛知県)では、2016年から春と秋の2回、図書館まつりを開催しています。2018年は6月と10月に各2日間(土曜・日曜)行われました。そのウェブサイトに掲載された写真から遊びの要素のある(または強い)ものをご紹介しますと、

 将棋会、生け花体験、英語で遊ぼう、エントランスイベント、本の修理見学会、落語、電子書籍体験会、読み聞かせ、工作体験ハロウィン、親子映画会、フェイスペインティングなど、盛りだくさんでした。

 また、同館の「図書館コラボイベント」(2018年度)は、図書館と市の他の部署とが協力して開催した多様なイベントです。ただし、こちらはターゲットが大人だけで、遊びや楽しみの要素が全く見当たりません。でも、試みとしてはとても面白いと思いましたので、ご紹介します。

図書館以外の部署とそのイベントは、財産管理課=ファシリティマネジメント講演会、商工観光課=創業ミニセミナー、子育て支援課=読み聞かせボランティアフォローアップ講座、カウンセリング室=「幼少期からの親子の対話の大切さ」講座、でした。ほかに愛知学泉短期大学=食育教育も加わっていました。

 

例3:ぶっくりモール in 飯塚 2018

 これは、飯塚市立図書館(福岡県)と同市の二つの商店街がコラボした「本のおまつり」で、2018年は3回目でした。開催は11月中旬の金曜から日曜までの3日間、会場は図書館とふたつの商店街。商店街との協力という点が珍しいですね。

 図書館会場での催しは地味なものがほとんどでしたけれど、商店街会場では「大人のぬり絵教室」「おはなしかい」「おもちゃすくい」「リサイクル市」「わくわく工作」など、ちょっと様子をのぞいてみたくなるような企画が並んでいました。

移動図書館(自動車文庫)

 公立図書館は、近くに図書館(中央館・地域館・分館・図書室など)がない地域住民のために、特製の自動車などに本を積んで巡回し、貸出・返却・予約、調べもの相談(レファレンス・サービス)などのサービスをしています。

 これを日本ではふつう移動図書館と呼んでいますが、自動車文庫と呼んでいる図書館もかなりあり、少数ですが自動車図書館、図書館バス、巡回文庫、動く図書館と呼んでいる図書館もあります。

 また、小学校や幼稚園・保育園に団体貸出をするための図書館車のことを巡回文庫と名づけている例も散見されますが、ここでは個人への貸出をするばあいの図書館車だけを取り上げています。

 

全国的な傾向

 全国の移動図書館車の台数は、文部科学省の社会教育調査の中の「図書館の自動車文庫の台数」(平成27年度=2015年度)で分かります。それによりますと、全国の486館が566台を保有していました。この486館は、全国3,331館の14.6%になります。

 保有台数の多いのは、岩手県(63台)、北海道(56台)、鹿児島県(28台)、大阪府(25台)などで、図書館数が圧倒的に多い東京都は9台です。保有台数の多寡の理由は一概に言えません。各自治体の地理的条件、公共交通の発達具合い、地域館・分館の充実度、自治体の財政状態、住民の図書館にたいする意識、教育委員会や図書館の考え、などが影響するからです。

 

自治体当りの車の台数

 移動図書館車をもつ自治体のほとんどすべてが、1台だけでサービスをしています。

2台を巡回させているのは、北海道(旭川市図書館)から九州の鹿児島県(鹿児島市立図書館・曽於市立図書館・南九州市立図書館)まで、いちおう全国に広がってはいますが、自治体数としては11市を確認できただけでした。

 台数がいちばん多かったのは鳥取市立図書館の5台です。この市立図書館は中央図書館と2図書館、6図書室からなりますが、中央図書館が3台、2図書館が各1台を運行し、ステーション(停車場所)は34か所です。巡回頻度はおおむね月に2回、停車時間はほとんど30分、鳥取環境大学鳥取大学へ行くのが珍しい点です。

 次いで台数の多かったのは、岡山市立図書館の4台。この市立図書館は中央図書館と8図書館、1図書室とからなりますが、ステーションは90か所です。積載冊数は600冊が2台、1,500冊が1台、3,000冊が1台。

 台数が3台だったのは、仙台市図書館(宮城県)、浜松市立図書館静岡県)、田辺市立図書館(和歌山県)、高松市図書館(香川県)でした。それぞれの特徴的な面は次のとおりです。

 仙台市図書館は、7館、10分室(市民センター内にあって蔵書13,000~21,000ほど)、せんだいメディアテークなどからなります。ここの特徴は、76ステーションの中に小学校が5校しか含まれていないことです。

 浜松市立図書館は館数が多い(中央とその1分室、ほかに22館)のに、自動車文庫が67か所のステーションを月に1回、巡回しています。

 田辺市立図書館(和歌山県)は3台の移動図書館車を走らせていて、それぞれを学校巡回用、一般ステーション巡回用、保育園・幼稚園巡回用と区別しています。1台の車に積める本の冊数が限られるわけですから、利用者層ごとに車を別にするのはgood ideaではないかと思います。

 高松市図書館(香川県)の移動図書館車は、2010年4月から市外の直島町へもステーション2か所を設けてサービスをしています。

 

ステーション(駐車場所・巡回地点)

 移動図書館車は、自治体内の小学校、幼稚園・保育園、公民館、公園、団地、集会所、福祉施設、神社など、利用者が集まりやすく駐車しやすい場所をステーションとしています。珍しいのは、先に挙げました大学のほかに、徳島市立図書館の移動図書館車は徳島大学の前に停まりますし、自衛隊の駐屯地・宿舎前に停まる例もいくつかあります。横浜市立図書館のステーションは21か所ですが、そのうちの17か所が公園です。

 ステーションの数が多い図書館は次の通りでした。

松山市立図書館(愛媛県)=165

名古屋市図書館(愛知県)=約120

長岡市立図書館(新潟県)=101

大阪市立図書館=100以上

富山市立図書館=99

長野市立図書館=92

 

積載冊数

 多くの移動図書館車は1,500~3,000冊の本を積むことができます。冊数がおよそ4,000冊だとしているのは、狭山市立図書館(埼玉県)と茨木市立図書館(大阪府)の車でした。逆に、北海道の町立・村立の図書館には、積載冊数が数百冊の車があります。

 

愛称

 ほとんどの移動図書館車には愛称がつけられています。利用者として多い子どもを意識してのことでしょう、平かな3~4文字からなる感じのよい名称が多いようです。きちんと調べたわけではありませんが、「ひまわり号」や「あおぞら号」、「ぶっくん」などが多かったように思います。もちろん漢字を使った愛称もありまして、長岡市立図書館の車の愛称は「米百俵号」で、ほほえましいですね。

 

巡回頻度と停車時間

 移動図書館車の巡回頻度は2週間ごとか1か月ごとが、ふつうです。

 停車時間は30分から1時間前後ですが、名古屋市図書館では2時間停車予定のステーションがかなりあります。

 

巡回の中止

 移動図書館車は、天候(大雨・大雪・台風など)や交通事情(道路工事)などを理由に運行を中止するばあいがあります。

 

珍しい試み

 最後に、変わったサービスの例をいくつかご紹介します。下記の③以外の情報源はそれぞれの図書館のウェブサイト、日付は201901~02です。

むかわ町立穂別図書館(北海道)

 「町立穂別図書館では、歩いて来館出来ない地域の子どもたちに、学校や保育所を通して、移動図書館による本の貸し出しを行っています。また、事情に応じて、病院・高齢者施設や個人宅にも出向いております。移動図書館の対象は全町です。ご希望がございましたら、お気軽にご相談下さい。」

 これは無料の宅配サービスを兼ねているのですね。

各務原(かかみがはら)市立図書館(岐阜県)の出前図書館

「出前図書館とは、市内企業の休憩時間や、団体の会合・セミナー・講演会などに移動図書館車が出向き、そこで利用カードの作成や本の貸出を行うサービスです。

 企業の事業内容や講演会のテーマに関連した本はもちろんのこと、人気のビジネス書や話題の人・物に関する本、歴史、旅行、趣味の本、女性社員のための料理、子育ての本などご希望のジャンルの本をのせて無料で出前します。」

十島(としま)村(鹿児島県)のセブンアイランド移動図書館

 「トカラ列島の、7つの有人離島を持つ十島村(鹿児島県)にはセブンアイランド移動図書館がある。島を巡航するフェリーに図書を積み込み、島から島へと本を受け渡していくものである。木箱に積み込まれた本は1か月から2か月ごとに島々を巡回していく。」(カレントアウェアネスE, no. 282, 20150604, 岡本真・ふじたまさえ)

沖縄県立図書館の空とぶ図書館

 沖縄県立図書館は「主に離島や北部地域の住民の皆様に読書機会を提供するため、町村教育委員会と連携し、空とぶ図書館(移動図書館)を開催しています。また、移動図書館の開催に合わせ、読み聞かせ会・読み聞かせスキルアップ講座などを開催し、読書活動の啓発を行っています。」

 また、「県立図書館は空路・海路・陸路を駆使して移動図書館を開催しています。」

 

講談社の「おはなし訪問隊」

 講談社は1999年7月、創業90周年記念事業として「おはなし訪問隊」の活動を始めました。これは、2台の車にそれぞれ550冊ほどの絵本を積み込んで全国を巡回し、学校、幼稚園・保育園、公立図書館、書店などを訪れるものです。

 1か所を訪問するのは1台の車で、次の2つを行います。

 ①訪問隊員が室内で紙芝居と絵本の読み聞かせ(30分)

 ②子どもが車に積んである絵本を自由に楽しむこと(30分)

 この「おはなし訪問隊」のウェブサイトではいつも「訪問希望」を募集しています。

 

 長岡市立図書館の「米百俵号」からこの「おはなし訪問隊」を思い出しまして、蛇足ですがご紹介しました。