図書館ごくらく日記

図書館に関するいくつかのトピックス

ルイス・キャロル(Carroll, Lewis, 1832-1898)

  不思議の国のアリス』によって知られている作家ルイス・キャロルは、1832年にイングランドのダーズベリーという緑ゆたかな村で、牧師の長男として生まれました。のちにルイス・キャロルという筆名を使うこのチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンには、ふたりの姉、8人の弟と妹がいました。

 子どものころのチャールズは牧師館をとり囲む自然との触れ合いを楽しむ一方、多くのきょうだいを楽しませる人形劇を書いたり、家庭内で読んでもらう雑誌を編集ししたりしていました。このころから、幼い子どもたちを喜ばせるのが好きだったのですね。

 

 1846年、14歳になったチャールズは、パブリック・スクール(名門私立中等学校)であるラグビー校に入学し、4年後の1849年末に卒業します。パブリック・スクールはエリートの養成を目的とする全寮制の学校で、卒業生の多くがオックスフォード大学やケンブリッジ大学に進学していました。

 当時のラグビー校にもご多分にもれずいじめがあったりして、のちにチャールズは学校が楽しくなかったと書いていますけれど、学業では好成績をおさめて首尾よくオックスフォード大学に合格します。

 

 ジャン・ガッテニョ『ルイス・キャロル』(1)などによりますと、チャールズが在籍したころのオックスフォード大学のありようは、ほぼ次の通りでした。

 所在地 = イングランド南東部のオックスフォード。

 構成員(およそ) = 学生1,400人、特別研究員500人、教授20人、合計2,000人。

 構成単位 = 独立性と個性の強い20の学寮(カレッジ)。

 学寮が共用する建物 = 図書館、博物館、教会、印刷所、講義・式典用ホールなど。

 授業担当者 = おもに各学寮に所属する特別研究員。

 

 チャールズ・ドジソンは18505月にオックスフォード大学のクライスト・チャーチ学寮への入学を許可され、翌年の1月に入寮して学生生活を始めます。あいかわらず優秀な学生だった彼は、とりわけ数学で何度も第1級の成績をおさめ、学生でありながら特別研究員となる例外的な栄誉に浴しました。

 ただ、クライストチャーチ学寮の特別研究員であるためには、いくつかの条件がありました。①独身であること、②学士号または修士号を取得すること、③学寮にとどまるばあいは聖職につくこと、などです。チャールズの父はクライスト・チャーチ出身の聖職者でしたけれど、結婚という選択によって特別研究員にとどまれなかったということです。

 そのかわり、「望まなければ教えなくともよいし、出版するとかそのほかの顕著な業績をあげることは必ずしも期待されてはいなかった。もしそう願うなら、彼は安楽椅子にゆったりと腰かけ両足をゆうゆうと暖炉にかざし、クラレット(フランス産の赤ワイン)を飲み、パイプをくゆらしながら残りの人生を過ごしてもよかった」のでした。(2

 

 チャールズ・ドジソンは怠惰な暮らしをするような人ではありません。真面目に学生を教え、学寮の事務的な仕事を引き受け、数学の論文・著作を発表し、当時はまだ珍しかった写真撮影の趣味を楽しみ、子どものためのファンタジーを書きながら、死ぬまでクライスト・チャーチ学寮で暮らしたのでした。申すまでもなく、長い休暇には親やきょうだいのいる家に戻り、リフレッシュしていました。

 彼が学部を卒業してすぐに課せられた事務的な仕事は、学寮図書館の司書補としての職務でした。数学の教師として学生を教えるかたわら、「時間が来ると彼は図書館を監督しに回り、本の目録を作るのが仕事だった」(3)ということです。この仕事は、18552月、彼が23歳のときに始まり、2年後の18572月までつづきました。

 

 チャールズが図書館での仕事を割り振られた1855年、クライストチャーチに新任の学寮長としてヘンリー・ジョージ・リデルが着任しました。チャールズより20歳ほど年長の新学寮長が連れてきた家族(妻、長男、3人の娘)のうちの次女が、のちに『不思議の国のアリス』のヒロインのモデルとなるアリスでした。

 1856年、チャールズ・ドジソンは当時まだ珍しかったカメラを手に入れ、写真撮影に熱中してゆきます。イギリスのルイス・キャロル協会による30項目ほどのごく簡略な「チャールズ・ドジソンの生涯」に、カメラを入手した18563月と撮影をやめた1880年が記載されるほど、チャールズと写真撮影は切り離せない関係にあったのでした。

 

 上司である学寮長リデルやその家族と親しくなったチャールズは、やがてリデル家を訪れたり、自分の住いに子どもたちとその家庭教師を招いたりするようになります。チャールズが子どもたちと外出するときは、「家庭教師が狙いだ」というような疑いをかけられないように、自分のきょうだいや親友のダックワースを誘うのが常でした。

 

 「夏の休暇が始まっていた186274日の午後、ドジソン、ダックワース、3人の少女が借りた船で川をさかのぼった。3人の娘たちがお話をねだった。ドジソンが話し始めると、ダックワースまでが喜んだ。登場人物の多くは実在の人物で、{アリスのふたりの姉の}ロリーナとイーディスはインコとワシ、ダックワースはアヒル、ドジソンはドードー

 その晩、帰ってきたとき、アリスが突然振り向いて、「あっ、ドジソンおじさん、私のためにアリスの冒険を書いてほしいわ」といった。ドジソンは書くことを約束した。彼はその本のために自分で絵を描いた。」(4

 このようないきさつで2年あまりかかって誕生したのが、チャールズがひとりの少女のために書き、世界に1冊しかない、手書きの文字と挿絵の本、『地下の国のアリス』でした。アリスたちを喜ばせたこの本は、やがてリデル家の客間のテーブル上に置かれて訪問者の目に触れ、正式の出版を勧められるまでになりました。

 結果、チャールズが『地下の国のアリス』の内容を膨らませ、挿絵をプロの画家にお願いし、タイトルを『不思議の国のアリス』と変えた本が、1865年に出版されました。出版にいたる過程で、著者ルイス・キャロルは、何度も挿絵の描きなおしを求めて、画家ジョン・テニエルを困らせたということです。また、初版の装幀が気に入らなかった著者が本を回収させ、別の装幀で再発行したという話も伝わっています。初めて著書を出す人の意気込みとこだわりが窺われますね。

なお、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンがルイス・キャロルという筆名を使い始めたのは、1856年に『汽車』という雑誌に詩を発表したときで、数学や論理学の論文・著書では終始、本名を使いつづけました。

 『不思議の国のアリス』は多くの読者に迎えられ、批評家たちにもおおむね好評で、それが続篇ともいうべき『鏡の国のアリス』の出版(1872年)につながりました。

 

 このようにしてルイス・キャロルは有名人になりましたけれど、その生涯をたどってみますと、有名になる、高い地位につく、お金持ちになる、といった野心とは無縁の人だったと思わずにいられません。中庸をわきまえ、誠実に職務と向きあい、穏やかな暮らしを望みつづけた人だったからです。

 

参照文献

1)ジャン・ガッテニョ著、鈴木晶訳『ルイス・キャロル』(法政大学出版局1988年)

2モートンN・コーエン著、高橋康也監訳『ルイス・キャロル伝 上』(河出書房新社1999年)

3)デレック・ハドスン著、高山宏訳『ルイス・キャロルの生涯』新装版(東京図書、1985年)

4)ロジャー・ランスリン・グリーン著、門馬義行・門馬尚子訳『ルイス・キャロル物語』(法政大学出版局1997年)

ローベルト・ムージル(Musil, Robert, 1880-1942)

 オーストリアの作家ローベルト・ムージルは、20世紀の前半にいくつかの話題作を発表したオーストリアの作家です。その代表作である『特性のない男』は、ほぼ同時期に活躍したマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』やジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』などと並んで、20世紀の小説に大きな影響を与えた作品だと言われることがあります。

 

 このうち、プルーストムージルにはいくつかの共通点がありました。社会的地位の高い父親が、堅実な職場である図書館に息子が勤められるよう手助けをしたこと、息子のほうは創作へのやみがたい思いをかかえつつ、図書館に籍を置いたこと、代表作の執筆に10年以上を費やし、結局、存命中にその完成作品を刊行できなかったこと、にもかかわらず死後にその作品の評価が高まったこと、などです。

 

 ムージルの学業としましては、中学・高校にあたる時期に陸軍のふたつの実科学校で学び、大学は父が教授をしていたドイツ工科大学へ進み、ついで急角度に方向を変えてベルリンにあるフリードリヒ・ヴィルヘルム大学で哲学と心理学を学びました。

この大学に在学中に処女作品『生徒テルレスの混乱』を書き上げ、1906年の出版にこぎつけます。この小説は評判がよく、翌年に4度の増刷を重ねるほどでしたけれど、発行元の出版社が倒産してしまいました。

 ムージルの学業は、1908年、27歳で哲学博士号を取得して終わります。

 

 1909年、30歳近くなっても腰の落ちつかない息子を案じた父アルフレートは、ローベルトがウィーンにある帝=王室図書館に就職できるよう、人を介して図書館に働きかけました。その結果、父の目論見どおりとはいきませんでしたけれど、1911年春、ローベルトはウィーン工科大学図書館の無給見習いに採用され、実務研修に従事します。けれど、初めから気乗りしなかった就職先が、案じていたとおり自分の時間を奪うのを嘆いて、彼は日記に次のように書きます。

 「3週間前から図書館勤務。耐えがたい、殺人的だ(そこにいる間はあまりにも耐えがたい)。ぼくはまた辞職して、漠然としたものの方へ方向をとるつもりだ。」(1

 そのころ、マルタという女性と結婚して一家を支える責任者となった一方、『合一』という短編小説集を出版したムージルは、いずれ文筆で身を立てることを「漠然としたものの方へ方向をとる」と表現したのでしょう。

 図書館での実務研修は次のようなものでした。

 「図書館長フェヒトナーと書記のゼートラクから、彼は新しい職業のために徹底的に<調教>された。そこで、「優秀な図書館員たるものの秘密は、任せられた書物のうちで、その標題と目次以外はけっして読まないこと」であることも学んだ。」「また、「本を並べたり、保存したり、整理したり、本の扉の誤植や誤記を訂正したりするための」文献目録や方式を学んだ。」(2

 いやいやながら出勤していたとはいえ、ローベルトはその資質と精励ぶりを評価されたのでしょう、19121月に2級司書に昇進し、給与を支給される身分となりました。

 

 2年余り図書館勤めをしていたムージルは、20135月に6週間の病気休暇に入ったのを皮切りとして、同じ年の8月末から3か月間、12月末からさらに数か月間の病気休暇を得て、図書館の仕事をほとんどしなくなってしまいました。

 191421日、彼は『新展望』という雑誌の編集者の職を得、翌日、ウィーン工科大学図書館に退職を願い出ます。結局、図書館での仕事は、見習い期間を含めて約3年間、病気休暇期間を除けば約2年間ということになります。

 

 1914年と言えば、第一次世界大戦が始まった年です。ようやく執筆活動に本腰を入れられそうになった矢先、ムージルはまた急角度に方向を変え、8月に兵役を志願します。配属されたのは歩兵連隊、入隊後3か月で中尉に昇進、体をこわして『チロル兵隊新聞』の編集者に転属、そこへ匿名で多くの寄稿、入隊後23か月後に大尉に昇進などと、191812月に軍籍を離脱するまで、ムージルは軍務に精を出したのでした。

 彼は20歳のときに志願兵として歩兵連隊に勤務した経験があり、22歳のときには予備役少尉に任命されてもいますから、故国の危急時にすすんで軍務につく覚悟はあったのでしょう。

 その後のムージル1919年から22年にかけてオーストリアの外務省や軍事省に勤め、それがいわゆる職歴の最終章となりました。ここからは、筆1本で生計を立てなければなりません。

 

 40歳代の前半、ムージルは戯曲『熱狂家たち』や短編小説集『三人の女』を刊行し、新聞・雑誌に劇評を書くなどして、作家としての地歩をかためます。『三人の女』の版元だったローヴォルト社が、1924年にムージルの既刊本の版権をすべて握り、ムージルが構想していた長編小説の前金として月に200マルクを支払う契約を結んでくれました。フランツ・カフカの著作を手がけるなどして、作家の才能を見抜く慧眼の持ち主だったローヴォルト社の社長は、ムージルの次作に期待したのですね。

 

 ところが、期待された作家の筆が進みません。193011月に『特性のない男』の第1巻が刊行されるまで、7年が必要でした。その間、ムージルはこの長編小説を新聞や雑誌に1章ずつ発表します。

日本では新聞や雑誌に小説を連載して、完結後に単行本化する例は明治時代からありまして、珍しくはありませんでした。とくに多くの読者を惹きつけた新聞の連載小説作家には、夏目漱石吉川英治がいます。けれども、ムージルのように、未発表作品の章をとびとびに新聞などに発表した例はなかったのではないでしょうか。考えられる理由はいくつかありますけれど、最も大きな理由は生活費をかせぐためだと思われます。なぜなら、長編小説の第1巻を書き上げるために心血をそそぐあまり、エッセイなどを書いて原稿料をかせぐ余裕がなくなり、結果として家計は苦しくなる一方だったからです。たとえば、193016日の日記には、「あと数週間しか生きていけない。{妻の}マルタはぼくに事態をはっきり認識させてほしいといっている」(3)と書いています。

 

 ムージルのこの窮状に、個人や団体が入れ替わり立ち替わり手を差し伸べました。

 彼を支援した個人のなかで最大の有力者だったのはトーマス・マンでした。マンはムージルより5歳年長で、ふたりは1919年に知り合っています。その後の10年余りはこれといった交流がありませんでしたけれど、『特性のない男』の第2巻が刊行されたとき、マンはある雑誌でこの長編を激賞し、プロイセン芸術アカデミーの助成委員会に対して、ムージル500~1000マルクを交付するよう訴えます。

 193810月にムージルが「露命をつなぐため、トーマス・マンに一回限りの緊急援助を懇願」(3)しますと、翌月、マンは多額の援助金をムージルに提供したのでした。

 

 『特性のない男』の第2巻は、第1巻の刊行からほぼ2年後の193212月に刊行されました。このときも第2巻に含まれるいくつかの章を刊行前に新聞や雑誌に発表し、ローヴォルト社は新聞に大きな広告を掲載したにもかかわらず、売れ行きは芳しくありませんでした。また、過去に書いた約30篇のエッセイ・評論集『生前の遺稿』(1935年刊)の売れ行きも惨憺たるものでした。

 

 このように、ムージルが追い詰められていったのには、『特性のない男』の構想の練り直しやたび重なる推敲のほかに、ナチス・ドイツによる抑圧があったことも否めません。

 初めのうちはムージルの作品を好意的に批評した人たちへの批判にとどまっていたものが、1936年以降はムージルの著作が発禁処分を受けるようになります。『生前の遺稿』の販売部数がのびなかった一因は、この本が発行の2か月後にナチス親衛隊によって発禁処分を受けたことです。

 1938年はムージルが崖っぷちに立たされた年でした。その原因は、

ドイツがオーストリアを併合したこと、

ローヴォルト社からムージルの出版権を引き継いでいた出版社がイタリアへ逃れたこと、

彼を支援していた人たちの多くが国外へ移住・亡命したこと、

ムージルと妻のマルタも8月にスイスへ逃れたこと、

ムージルの著作が「有害にして好ましからざる著作一覧」に載り始めたこと、などです。

 

 19404月、ついにムージルの全著作が「有害にして好ましからざる著作一覧」に掲載されました。翌年の9月、彼は以前から金銭的な支援をつづけてくれていたアメリカのチャーチ夫妻への手紙に、次のように書いています。

 「{スイス}国内でなんらかの所得を求めることは外国人、とりわけ歓迎されざるよそ者には厳しく禁じられています。毎度毎度さらし者になるとわかっていながら滞在許可証を更新する二、三カ月ごとに、けっしてそのようなことを試みない旨、神かけてかつ執拗な脅迫のもとに誓わなければならないのです。」(4

 収入をもたらすはずの著作を「有害」とされ、亡命の地で生計を立てようにも、身過ぎ世過ぎはまかりならぬと脅されては、立つ瀬がありませんね。

 

 ムージル1936年、水泳中に脳卒中の発作を起こし、近くにいた友人に助けられて軽い後遺症が残っただけで大事にいたらなかったことがありました。けれど、1942415日の、自宅での脳卒中の場合は助かりませんでした。

 

 私は、コリーノの『ムージル伝記 3』にある「年譜および居住・滞在の記録」の終り近くを読んでいまして、194111月、「日記の中で結婚生活を総括」、19421月半ば、「{7歳年上の}マルタに、ドストエフスキー夫人にならって夫の著作を自費出版するよう促す」という部分が気になりました。自分の死を予感していなければ、そのような行動をとらないのではないかと思ったからです。

 ムージルの研究者・翻訳者の早坂七緒氏は、ムージルに関する「脱深刻化(Enternstung)という敗北の形」という論文の中で、次のように書いておられます。

 「マルタとの結婚記念日にムージルは世を去った。筆者は自然死ではないのではないかと思い、可能な限り調査したが、医師による死亡診断書はどうしても入手できなかった。」(5

 そして注記には、かなわなかったムージルの死因究明のいきさつがくわしくつづられています。要約しますと、

2000年ごろと2006年とに、求められた費用を送金して死亡診断書{の写し}を請求したところ、初回は結果として成果ゼロ、次回は「ローベルト・ムージルの氏名と死亡日時の記された紙片」を受けとっただけ。

 2012年にはフランス語を母国語とする協力者を伴ってジュネーブの役所へ行き、渡された文書を(写真撮影はできないと言われたので)許された15分間で書き写した。それを外で待っていた協力者に見せたところ、「これは死亡診断書ではない」と言われた。

 早坂氏のいかにも研究者らしい追究に対して、スイスの警察や役所の人を食った対応が残念ですね。

 

参照文献

1)ローベルト・ムージル著、圓子修平訳『ムージル日記』(法政大学出版局2001年)

2)カール・コリーノ著、早坂七緒ほか訳『ムージル伝記 1』(法政大学出版局2009年)

3)カール・コリーノ著、早坂七緒ほか訳『ムージル伝記 3』(法政大学出版局2015年)

4)アードルフ・フリゼー編、加藤二郎ほか訳『ムージル読本』(法政大学出版局1994年)

5)早坂七緒「脱深刻化(Enternstung)という敗北の形」in『人文研紀要』78号(中央大学人文科学研究所、2014年)

広域で使える図書館カード(外国の例)

 仕事や学業のために住いとは別の自治体に通う人にとって、職場や学校・大学の近くにある図書館を利用するほうが便利なばあいがあります。それについては、このブログの「広域利用」で書きました。

 また、このブログの「図書館利用カード」では、国内の「複数の自治体の図書館で使える共通カードの例」や1枚の利用カードで全国の図書館から本を借りられる国をご紹介しました。

 ここでは、外国の例をもう少しご紹介しようと思います。いずれも、カードの入手と貸出にかんするサービスが無料のばあいに限っています。

 なお、複数の行政区域で使える図書館カードを、英語ではlibrary cardの前にone, single, common, joint, unifiedなどを付けて表現しています。

 

国全体でひとり1枚の図書館カードを使える国

(1)アイルランド

 この共和国の面積は北海道より少し狭く、人口は約480万人です。

 2014年10月30日、環境・コミュニティ・地方政府を管轄する大臣が、「市民は1枚の会員カードで、アイルランドのすべての公共図書館の蔵書にアクセスできるようになる」と発表しました。

 そして、2017年5月29日の地方自治体管理局(LGMA)のニュースは、各自がもつ地元の図書館会員カードで、国内333の公共図書館から本やDVD、ゲームを借りることができ、その他のサービスもふつうに受けられる、と報じています。

 また、首都ダブリン市の図書館・文書館局のウェブサイトによりますと、「利用者はアイルランドのどの図書館で借りた資料でも、ダブリン市のどの図書館に返却してもよい」としています。

(2)韓国

 このブログの「図書館利用カード」をご覧ください。

(3)ノルウェー

 この王国の面積は日本とほぼ同じで、人口は500万人余りです。この国での1枚の図書館カードシステムは2005年に実施され始め、ノルウェーのほとんどの公共図書館大学図書館が参加しています。

 トロンハイム市図書館のウェブサイトによりますと、ノルウェーに住んでいる15歳以上の人は全国貸出カード(National Loan Card)を無料で手に入れて国内のほとんどの図書館で使うことができると説明しています。

(4)その他(準備・努力中)

(4-1)カザフスタン

 2018年8月15日の電子版『カザフスタンプラウダ』に掲載された「カザフスタンに単一図書館カードが導入される」という記事は、国立学術図書館の館長が「私たちは今、カザフスタン中で使える単一利用者カードを作るべく作業をすすめています」と語ったと報じています。

 カザフスタンでは、2013年に高等教育機関の単一利用者カードが実施され始めましたので、公共図書館を含めての実現も可能性がありそうですね。

(4-2)ニュージーランド

 2015年7月末に開かれたニュージーランド図書館・情報協会の「図書館の未来 2015」という会合の報告書にある「未来の図書館は…」という項目に、「私たちは、利用者がニュージーランド全土のどの図書館ででも使える1枚の図書館カードをもつことになるだろう」と書かれています。けれども、4年が経った今、組織的な動きはないように思われます。

 たとえば、クライストチャーチ市の図書館は、自館の利用者に次のように呼びかけています。「休日にはあなたの図書館カードを所持していてください。なぜなら、ニュージーランドのほとんどの公共図書館から貸出を受けられますから」と。

 一方、オークランドウェリントンの図書館のウェブサイトの案内には、市外の人は滞在期間に応じた会費を払って貸出を受けたり、無料で登録して1点の貸出ごとに2ドルを払ったりすると書かれています。

 

連邦国家の州などで共通の図書館カードを使える例

(1)アメリ

(1-1)ジョージア州

 アメリカ南部のジョージア州にはPINESというボーダーレスの図書館サービスシステムがあり、そのカードを持っている州民は、州内の300以上の公共図書館の1,100万点以上の資料を利用することができます。利用には、貸出、予約、情報検索などが含まれています。(Georgia Public Library Serviceのウェブサイト、201905)

(1-2)ペンシルベニア州

 ペンシルベニア州立図書館のウェブサイトには詳細な「州規模の図書館カードシステムのためのガイドライン」が掲載されています。それによりますと、州内の住民が図書館資料を利用する機会を増やすために、直接貸出プログラムを実施するとしています。また、州政府から補助金を受けている図書館はこのシステムに参加しなければなりません。方法は次のとおりです。

 ①図書館を利用する人は、地元の図書館で使えるカードを手に入れます。

 ②州内の地元以外の公共図書館を利用したい人は、「アクセス・ペンシルベニア」というステッカーを地元の図書館からもらって、自分のカードに貼ります。

 ③地元以外の図書館から借りた資料の返却方法については、貸し出した図書館が決めます。

(1-3)ミシガン州

 ミシガン州にはMILibraryCardというプログラムがあります。このプログラムの特徴は、公共図書館だけでなく大学図書館などの学術図書館も参加している点です。

 「参加館のためのMILibraryCardガイドライン」(Suburban Library Cooperativeのウェブサイト)によりますと、このプログラムの概略は次のとおりです。

 MILibraryCardは任意参加のプログラムです。

 参加できるのはミシガン州公共図書館と学術図書館です。

 利用者は地元の図書館で自分のカードにMILibraryCardステッカーを貼ってもらいます。このステッカーを作っているのはSuburban Library Cooperativeで、この組織は参加館のリストの維持にも責任をもっています。

 MILibraryCardを使って地元以外の図書館で借りられるのは、原則として印刷資料です。けれども、個々の図書館は自館の方針によってそれ以外の資料を貸し出すことができます。

 MILibraryCardを使って資料を借りた利用者は、原則として借りた図書館へ返却しなければなりません。

 2019年5月現在、参加館リストには99館が掲載されています。ただし、デトロイト公共図書館(22館)やモンロー郡図書館システム(16館)を1館と数えての話です。なお、6館が学術図書館です。

(1-4)テキサス州

 面積が日本の2倍近くあるテキサス州では、TexShareという州規模の図書館協力プログラムが実施されています。このプログラムを管理運営しているテキサス州図書館・文書館委員会のウェブサイトによりますと、プログラムに参加している図書館の利用者は、図書館の館種(公共・大学・専門など)、規模、所在地にかかわらず、他の参加館からもTexShareのサービスを受けることができます。プログラムの概略は次のとおりです。

 参加館はテキサス州内の公共図書館と学術図書館、約500館です。

 利用者は自分の地元の図書館にTexShareカードの発行を申し込んで手に入れ、それを持参すれば、他の参加館から資料を借り出すことができます。

 参加館はそれぞれの方針にしたがって貸し出す資料の種類、点数、貸出期間を決めています。

(1-5)アメリカのその他の州

 アラスカ、イリノイ、ハワイ、マサチューセッツミネソタなどの州でも、類似のプログラムを実施しています。

 

(2)オーストラリア

(2-1)ビクトリア州

 スウィフト図書館コンソーシアムのウェブサイトによりますと、「2015年7月いらい、あなたがビクトリア州のスウィフト図書館コンソーシアムに参加している図書館の会員であれば、あなたの図書館カードはSwift One Cardということになり、スウィフトコンソーシアム・ネットワークに参加しているどの公共図書館においても、資料を借りたり、予約したり、未払い料金を払ったりすることができます」ということです。

 このばあい、共通の図書館カードを発行するのではなく、あるいは目印用のステッカーを貼るのでもなく、個々の図書館が発行する利用カードが州内のどこでも通用する、という方式ですね。

 スウィフト図書館コンソーシアムは、ビクトリア州公共図書館学校図書館、職業専門学校(TAFE)図書館による協力ネットワークのことです。利用者は、150以上の参加館の合計300万点以上の中から資料を借りることができます。

 

(2-2)南オーストラリア州

 2014年、南オーストラリア図書館局は、州の地方自治体協会および68の議会と協力して、州規模の図書館カードを導入するプロジェクトを始めました。その結果、「One Cardのおかげで、南オーストラリア州の図書館利用者は、単一のカードでどの図書館でも利用でき、400万点以上の資料にアクセスできるようになりました。」(Libraries of SAというウェブサイト)

 州の住民は、One Card Networkの参加館の図書館カードを持っていれば、州内のどこの公共図書館からでも資料を借り、それをどこの図書館にでも返却できます。ということは、ビクトリア州と同じように、カード自体を統一しているわけではないのですね。

なお、貸出期間などの条件は図書館によって異なります。

 

(3)カナダ

(3-1)アルバータ州

 アルバータ州には、全館種で通用するTAL(The Alberta Library)カードと、公共図書館だけで通用するME図書館カードがあります。

A.  ME図書館カード

 このプログラムを実施しているのはアルバータ公共図書館ネットワークで、その貸出にかんするサービスの対象は、地元の図書館カードを持っている18歳以上の州民です。

地元以外の公共図書館から本を借りたい人は、ウェブ上でME Librariesに登録するだけで、地元の図書館カードを使ってアルバータ州のどの公共図書館からでも本を借りることができます。

 このネットワークの参加館は300以上、資料は合計1,000万点以上とのことです。

B.TALカード

 TALは州規模の図書館コンソーシアムで、1997年に発足しました。そこには、公共図書館、地域図書館システム、大学図書館、カレッジおよび工学研究所図書館、専門図書館が含まれています。資料の合計は3,000万点以上とのことです。

 出発が早く、いくつもの館種の図書館が参加しているからでしょうか、この枠内で他の図書館の資料を借りようとする利用者は、使いたいと思う図書館ごとに別のカードを登録しなければなりません。ただし、他の公共図書館を使うばあいは、上記AのME図書館カードで用が足せるわけです。

(3-2)ニューブランズウィック州

 ニューブランズウィック州公共図書館のネットワークであるニューブランズウィック公共図書館サービス(NBPLS)のウェブサイトによりますと、この組織は州の担当部署、5つの地域部署、52の公共図書館、11の公立学校図書館などで構成されています。

 この州の図書館システムは、蔵書や統計と同様に公共図書館が単一の図書館カード(single library card)をも共有して、資源共有を最大限にするようにデザインされています。

 州内に住んでいる人は地元の図書館でカードを手に入れ、それを60以上の州の公共図書館で使えます。使い方は、資料を借り、コンピュータを利用し、オンライン資源にアクセスすることなどで、借りた資料はどの図書館でも返却可能です。

(3-3)ブリティッシュコロンビア州

 ブリティッシュコロンビア州のウェブサイトにある「公共図書館」の項によりますと、この州に住んでいて地元の図書館カードを持っている人は、州内の他の公共図書館を訪れて無料のBC OneCardを手に入れることができます。

 利用者は、BC OneCardを入手した図書館から資料を借り出すことができ、返却はどの公共図書館でも可能です。

 BC OneCardは、それを入手した図書館でのみ使うことができ、また、図書館で借りられる資料や受けられるサービスの範囲は、それぞれの図書館によって異なります。

(3-4)その他

 カナダでは、ほかにサスカチュワン州公共図書館のみ)やノバスコシア州公共図書館大学図書館)でも類似のサービスを実施しています。

 

(4)ロシア

(4-1)タタルスタン共和国

タタルスタンの国立電子図書館ニュース(2017年2月3日)によりますと、

 「2017年、タタルスタン共和国で単一図書館カードの実施が始まりました。すべての市民は無料で新しい図書館カードを受けとる資格があります。新しいカードを申請するためには、パスポートを持って地方自治体の図書館または州立図書館へ行く必要があります。」

 「すでに共和国の図書館カードをもっている人は新しい単一図書館カードと取り換える必要があります」とのことです。

 

(5)その他(準備・努力中)

(5-1)ウェールズ(英国)

 2015年9月4日、「ウェールズの図書館(Welsh Libraries)」というウェブサイトに、「アクセスを改善し資金を節約するための全ウェールズ図書館カード計画」という記事が掲載されました。

 ウェールズ政府が、国内のどこの図書館でも使える全ウェールズ図書館カードは地方自治体の図書館関係財政を大幅に削減できると公表したというものです。また、ウェールズ中で使える単一図書館カードは、利用者が本を国内のどの図書館からでも借りられ、どの図書館へでも返却できることを意味するとしています。

 さらに、地方自治体は徐々にこの新しいシステムを採用し、はじめはウェールズ北部の6つの自治体が2015~16年に採用するだろうとしています。

(5-2)カタルーニャ州(スペイン)

 ヨーロッパ図書館・情報・ドキュメンテーション協会事務局(EBLIDA)のウェブサイト版ニュースで、2015年3月17日、スペインのカタルーニャ州政府の図書館に関連する動きが報じられました。内容は、文化省とバルセロナ地方議会が全カタルーニャの地域図書館を支援する合意文書に署名し、具体的には次の2項目を実現するというものです。

 ①2015年中に州内の公共図書館の目録の統一を図り、2016年の前半には稼働させること。

 ②カタルーニャ全体で通用する単一の図書館カードを導入し、利用者が最初にどこで登録しようとも、どの地方の図書館でもそれを使えるようにすること。

 なお、2015年時点では、160の地方図書館のうち、わずか11が人口5,000人以上の町、120が人口3,000人以下で、後者のような小さな自治体では図書館サービスを提供する法的な義務がありません。

(5-3)スコットランド(英国)

 2017年11月、国立国会図書館のカレントアウェアネスに「スコットランド政府は、1枚のカードで全公共図書館を利用できる“One Card”プロジェクトの試行事業を開始したと発表しています」という記事が掲載されました。

 2019年6月現在、スコットランド図書館・情報評議会のウェブサイトにある”One Card”という項目では、このパイロット計画が最終的に、スコットランドのすべての公共図書館に採用されることが望ましいとしています。

公立図書館の無料宅配サービス

 公立図書館で、「図書館の利用に障害のある人」に対するサービスが広がっています。広がっているのは、サービスを実施している自治体、サービスの種類と対象者です。

   その中で、かつて肉体的に何らかの障がいをもつ人たちに限っていた無料の宅配サービスは、高齢者、妊産婦、子育て中の人、病気やけがのために自宅で療養している人、自宅で家族を介護している人など、対象者の範囲をどんどん広げつつあります。これらの人たちをひとくくりに表現しますと、「図書館の利用に障害のある人」ということになります。

 

 ここでは、すでに当り前のサービスとなっている感のある身障者へのサービスや有料サービスの例を省き、「図書館の利用に障害のある人」に対する無料の宅配サービスを取り上げます。

 例によって、「」内は各図書館のウェブサイトからの引用です。また、宅配が無料サービスだと判断できても、対象者を「来館が困難な方」などとする一般的な表現のばあいは、採りあげませんでした。

 

名称

 宅配サービス、配達サービス、配送サービス、配本サービスという言い方が多く見られます。そのほか、家庭配本サービス、移動図書館車の戸別訪問サービス、宅送サービスなども散見されます。

 

内容と頻度

 サービスを希望する人に、図書館の本などを届け、回収(返却処理)をも行います。

 ほとんどすべての図書館は、サービス利用の申込みを受けつけますと、対象者の資格があることを事前に確認します。

 宅配の頻度は、隔週に1回(月に2回)と月に1回が最も多く、週に1回、週に2回、月に1~2回もあります。配達したときに前回配達分の返却を受けつけます。

 

宅配の担当者

 図書館の職員や業者委託などとする図書館は少なく、多いのはボランティア(グループ)です。

 

対象者別に見た無料宅配 A:高齢者

 下記の例では、ほとんどのばあい、「(ひとりでは)来館が困難」という条件がついています。

旭川市図書館(北海道)=65歳以上

札幌市中央図書館(北海道)=おおむね65歳以上

斜里町立図書館(北海道)=65歳以上

市立名寄図書館=在宅の高齢者

新冠(にいかっぷ)町(レ・コード館)図書プラザ=満65歳以上の在宅高齢者

美唄市立図書館(北海道)=65歳以上

栃木市図書館(栃木県)=高齢等

邑楽(おうら)町立図書館(群馬県)=高齢者

大泉町立図書館(群馬県)=65歳以上

太田市立中央図書館(群馬県)=満70歳以上

新座(にいざ)市立図書館(埼玉県)=高齢者

蓮田(はすだ)市図書館(埼玉県)=高齢者

清瀬市立図書館(東京都)=高齢者

国立市くにたち図書館(東京都)=高齢者

新宿区立図書館(東京都)=高齢者

調布市立図書館(東京都)=高齢者

豊島区立図書館(東京都)=高齢者

東久留米市立図書館(東京都)=高齢者(75歳以上)のみの世帯の人

町田市立図書館(東京都)=「高齢等で来館が困難、かつ代理の来館者が」いない人

大磯町立図書館(神奈川県)=65歳以上のひとり暮らしの人

藤沢市図書館(神奈川県)=65歳以上

山形村図書館(長野県)=75歳以上の高齢者

内灘町立図書館(石川県)=80歳以上の人(近くの公民館までの配達)

かほく市立中央図書館(石川県)=「75歳以上の高齢者のみの世帯」

白山市立図書館(石川県)=高齢者

伊豆の国市立図書館(静岡県)=高齢者

おおぶ文化交流の杜図書館(愛知県)=75歳以上の高齢者

知多市立中央図書館(愛知県)=「65歳以上で一人暮らしまたは高齢者のみの世帯」の人

多賀町立図書館(滋賀県)=高齢者。ただし、「居住地近くの施設への配送や宅配」

明石市民図書館(兵庫県)=高齢者(65歳以上)

稲美町立図書館(兵庫県)=高齢者

播磨町立図書館(兵庫県)=高齢者

海士(あま)町中央図書館(島根県)=図書館に足を運べない高齢者

筑後市立図書館(福岡県)=在宅高齢者

国東(くにさき)市立図書館(大分県)=在宅の高齢者(70歳以上)

佐伯市立佐伯図書館(大分県)=原則70歳以上

豊後高田(ぶんごたかだ)市立図書館(大分県)=75歳以上

出水(いずみ)市立図書館(鹿児島県)=高齢・交通等の事情で図書館に行けない市民

志布志(しぶし)市立図書館(鹿児島県)=高齢者

 

対象者別に見た無料宅配 B:妊産婦と育児中の人

新冠町(レ・コード館)図書プラザ(北海道)=妊婦または1歳未満の乳児のいる人

美唄市立図書館(北海道)=妊娠中や、子どもが小さくて外出が困難な人

栃木市図書館(栃木県)=妊娠、育児により来館が困難な人

邑楽町立図書館(群馬県)=妊産婦(産前産後8週以内)

大泉町立図書館(群馬県)=出産等で一時的に来館できない人

調布市立図書館(東京都)=出産前後で一定期間来館できない人

狛江市立図書館(東京都)=妊娠や出産で来館がむずかしい人

岐南(ぎなん)町図書館(岐阜県)=妊娠、出産により安静を要する人

宝塚市立図書館(兵庫県)=満1歳未満の乳児を養育する人(月に1回、無料郵送貸出)

播磨町立図書館(兵庫県)=育児中で来館が困難な人

綾川町立図書館(香川県)=「妊娠中または乳幼児を養育する」人

筑後市立図書館(福岡県)=「子育て中」の人

 

対象者別に見た無料宅配 C:自宅療養者(病人・怪我人)

斜里町立図書館(北海道)=長期在宅療養者

深川市立図書館(北海道)=「けがや介護などで外出ができない」人

邑楽町立図書館(群馬県)=一時的な自宅療養者

大泉町立図書館(群馬県)=一時的な自宅療養者

太田市立中央図書館(群馬県)=骨折などで一時的に来館できない人

新座市立図書館(埼玉県)=一時的に身体が不自由になった人

我孫子(あびこ)市民図書館(千葉県)=寝たきりの高齢者、長期に自宅療養している人、一時的な障がいで来館が困難な人

東金市立図書館(千葉県)=「独居寝たきり老人」「長期在宅療養者」

流山(ながれやま)市立図書館(千葉県)=自宅で1か月以上療養している人

野田市立図書館(千葉県)=長期間の自宅療養者

狛江市立図書館(東京都)=ケガなどで来館がむずかしい人

新宿区立図書館(東京都)=病気やケガなどで来館が困難な人

調布市立図書館(東京都)=「ケガなどで、一定期間来館できない」人

八王子市図書館(東京都)=「高齢による寝たきり等の理由で在宅生活」をしている人

目黒区立図書館(東京都)=病気や身体が不自由など、障害があるため図書館に来ることが困難な人(配達は自宅または勤め先)

新潟市立図書館(新潟県)=寝たきり等で来館が困難な人

白山市立図書館(石川県)=長期自宅療養者

 

対象者別に見た無料宅配 D:自宅で介護や看病をしている人

深川市立図書館(北海道)=「けがや介護などで外出ができない」人

狛江市立図書館(東京都)=「家族の看病・介護のため外出ができない」人

調布市立図書館(東京都)=「自宅で常時介護をしていて、外出が困難な」人

宝塚市立図書館(兵庫県)=「要介護度3以上(重度)の人を在宅介護」する人(無料で郵送貸出)

綾川町立図書館(香川県)=「自宅で常時介護をしている」人

 

対象者別に見た無料宅配 E:図書館への交通が不便な人

富士見町図書館(長野県)=交通手段がない人

山形村図書館(長野県)=交通手段がない高齢者など

赤穂市立図書館(兵庫県)=市内の一部地域の全住民

綾川町立図書館(香川県)=遠隔地に住んでいる人

筑後市立図書館(福岡県)=交通手段がない人

出水(いずみ)市立図書館(鹿児島県)=交通事情等で図書館へ行けない市民

 

対象者別に見た無料宅配 F:入院患者や社会福祉施設への入所者

邑楽町立図書館(群馬県)=社会福祉施設に入所している人

大泉町立図書館(群馬県)=社会福祉施設に入所している人

浦安市立図書館(千葉県)=順天堂病院の入院患者(浦安市民以外も可)

調布市立図書館(東京都)=市内の病院に長期入院している人

西東京市図書館(東京都)=市内の施設に入院中の人

港区立図書館(東京都)=区内の高齢者施設等の入所者

新潟市立図書館(新潟県)=市内の病院・施設に長期入院・入所している人

 

珍しい無料配達の例

    湧別町図書館(北海道)は、絵本の定期宅配サービス「絵本くらぶ」を実施しています。「ロングセラーの名作絵本を中心に、ご家庭で読んでいただきたい良書をバランスよく選定した「5冊セット本」を毎月」希望者の自宅まで届けるもので、対象は0歳~3歳の子どもがいる家庭です。図書館が選んだ絵本を届けるという点で、とても珍しい例です。

 

 あきる野市図書館(東京都)の「郵送・宅配サービス」は、「病気や怪我などで図書館への来館が困難な方にも資料をご利用いただけるよう、ご自宅まで資料をお届けするサービスです。資料の返却も郵送や宅配で行うことができます。」

 このサービスの珍しい点は、図書館からの配達と利用者による返却を、郵送と宅配のどちらかに限定していないことです。利用は無料です。

 

 茅ヶ崎市立図書館(神奈川県)の家庭配本サービスは、「図書館まで来館するのが困難で、かつ、図書館の利用に際し、代理に図書館まで行ってくれる家族などがいない方のご自宅へ、株式会社ジェイコム湘南の職員が図書を配送・回収するサービスです(ただし、茅ヶ崎市民に限る)。」「利用者の自宅(老人ホーム等の施設は除く)に限り、金曜日の午後にジェイコム湘南の担当者が配送します」ということです。

 J:COMのウェブサイトによりますと、「この配本サービスにより、茅ヶ崎市は、市および利用者の金銭的な負担なく、図書館資料を配本することができます。また、J:COM 湘南は、J:COM湘南のスタッフが配本を担い、高齢者や体の不自由な方とのふれあいや安否確認などを通じることで、地域社会へ貢献することができます。」

とのことで、企業が自らの負担で公立図書館のサービスを代行している点が、とても珍しいですね。

 

 高森町図書館(長野県)では移動図書館の巡回に合わせて希望者の自宅や職場(町内限定)へ資料を届けるサービスを行っています。利用者は電話やホームページを通じて貸出の予約をし、届けてもらいます。次の巡回日までの2週間が貸出期間で、自分で図書館に返却してもよいことになっています。

 このサービスが珍しいのは、町内なら職場にも資料を届けてくれること、移動図書館車が立ち寄ってくれること、です。

 

 富士見町図書館(長野県)の「宅配サービス」は、ボランティアが担っています。「本を読みたいけれど交通手段がない方、視力が落ちてご自分で読めない方に本をお届けします。本を読んで差し上げることもしています。ご希望の方はご連絡ください。」

 ということで、「本を読んであげる」というのが、とても珍しいですね。

 

 御坊市立図書館(和歌山県)は、「御坊市社会福祉協議会の住民参加型「家事援助サービス」花まるごぼう派遣事業と協力して、図書館へ来ることの難しい方へ本を宅配するサービス」をしています。

 この事業は提供会員(サービスを提供する会員で年会費500円)、利用会員(サービスを利用する会員で年会費500円)、協力会員(資金等の支援をする会員で年会費1,000円)の3種類の会員で構成されています。対象者は、「御坊市内在住で、日常生活を送る上で手助けが必要な、65歳以上の方、障がいのある方、産前、産後の方」です。

 利用する人は年会費500円を払いますので、無料とは言えませんけれど、参考になる珍しい事例ではないかと思います。

 

 海士(あま)町中央図書館(島根県)は、「本の宅配便」(移動図書館サービス)をしています。これは、「中央図書館まで足を運べない高齢者を対象にした図書館サービスです。健康福祉課による各地区を巡回する健康相談にあわせて、本の宅配便を実施しています。(全4地区を2ヶ月に1回)。」

 この宅配便で珍しいのは、健康福祉課と協力して、巡回健康診断のときに図書館の本を高齢者の自宅へ届ける点です。

 

 西米良(にしめら)村のあさよむ図書館(宮崎県)は、基幹集落センターの2階にあり、開館は午前8時半から午後4時半までです。「希望の図書がありましたら、下記アドレスまでお知らせください。宅配車でご自宅まで配達します」ということで、

 この宅配サービスが異色なのは、全村民が対象者となっている点です。ちなみに、2019年4月1日現在、村の人口は1,126人、高齢化率は約50%、面積のほとんどすべてが山林です。

 

 志布志市立図書館(鹿児島県)の宅配サービスは、対象者が「高齢の方か身体的都合により図書館までの交通手段のない方」で、募集は「最大10人」、宅配方法は「移動図書館車にて宅配」です。

 この図書館のばあい、人数を限定している点と、移動図書館車での配本という点が珍しいですね。

 

配慮の行き届いた無料配達の例

 狛江市立図書館(東京都)は、「歩行がむずかしい、寝たきり、家族の看病・介護のため外出ができない方、妊娠や出産、ケガなどによって、医療関係者から安静を指示されているなど、来館することがむずかしい方に、図書館職員が資料を狛江市内のご希望の場所直接お届けします。録音資料、点字資料も宅配サービスの対象です。」宅配は原則として週に2日で、火曜日と土曜日となっています。

 

 調布市立図書館(東京都)は、市内在住の次のような人にも無料で資料の宅配サービスをしています。市内の病院に長期入院している人、「高齢・病気などで、来館が困難または重い本を持ち帰るのが難しい」人、「出産前後やケガなどで、一定期間来館できない」人、「自宅で常時介護をしていて、外出が困難な」人。「宅配協力員(ボランティア)の協力により、市内11館すべての図書館で実施しています。」

 

 筑後市立図書館(福岡県)の無料の宅配サービスは、「なかなか図書館に行けない、家を出られない、交通手段がない…。子育て中、在宅高齢者、身体障害者など、図書館へ一人で来館することが出来ない筑後市民なら、どなたでもご利用できます!」

 というサービスで借りられる資料は、本・雑誌10冊まで、ビデオ・DVD2点まで、宅配時間は「火曜日から金曜日の午後3時から午後6時」、返却は「期限になりましたら、図書館からお電話いたします。その際、延長や貸出本などのご希望がありましたらおっしゃってください。返却のみに伺うことはできません。」「一般の利用カードで、無料でご利用いただけます。」

森鷗外とふたりの親族(もり・おうがい 1862-1922)

 ここでは、森鷗外と弟の潤三郎、長女茉莉(まり)の夫だった山田珠樹をご紹介します。

 

(1)森鷗外

 森鷗外は、本名林太郎、父は津和野藩(現:島根県)の御典医だった静泰(明治維新後に静男と改名)、母は峰子というしっかり者の女性でした。林太郎が生まれたのは1862年文久2年)ですけれど、のちに東京医学校の予科に入学するとき、2歳の年齢不足をいつわって1860年(万延元年)生まれとし、以来、表向きはそれで通しました。

 と言いますのも、林太郎少年は医学校予科へ入学願書を提出する時点で、四書五経オランダ語、ドイツ語を学んでいて、学力は十分すぎるほどについていたからでした。

彼が藩の儒者について四書の素読を始めたのは満4歳、その後も藩校などで漢学をつづけ、家に帰れば母の監督下で復習をしました。満8歳になりますと、父や父と同業の藩医からオランダ語を学び、1872年(明治5年)、満10歳のときに林太郎は父とともに上京し、私塾でドイツ語を学びます。「栴檀は双葉より芳し」の典型だったのですね。

 

 1877年(明治10年)、15歳のとき、東京医学校が東京大学医学部となり、林太郎はその本科生となります。同級には、終生の友となる賀古鶴所(かこ・つるど)や軍医として同じ道を歩んだ小池正直(こいけ・まさなお)がいました。このころの寄宿舎生活をもとにして書かれた『ヰタ・セクスアリス』には、語り手の「僕」をいつも小僧呼ばわりする同室の学生が、古賀という名前で登場します。賀古鶴所は林太郎より7歳年長、寄宿舎ではじっさいに同室、古賀は賀古の文字順の入れ替えというわけで、鷗外はこの人物のモデルは賀古ですよ、と示唆しているのですね。

 

 1881年明治14年)、19歳で首尾よく大学を卒業した林太郎は、しばらく父の経営する医院で診療にあたったあと、数か月後に医官・軍医としておもに衛生制度の研究に従事します。4年後の1885年(明治18年)、林太郎に飛躍のチャンスが訪れました。官費によるドイツへの留学です。使命は、陸軍の衛生制度調査と衛生学研究、師とすべきはライプツィヒのホフマン、ミュンヘンのペッテンコーファー、ベルリンのコッホでした。この3人は世界一流の医学者で、衛生学や細菌学の権威でした。

 林太郎は1888年までの4年間、陸軍の高官から指示されたとおり研究に従事しつつ、西洋の文学や美術にも親しみます。

 

 帰国の翌年から、林太郎は堰を切ったように医学関係の文章を発表する一方、鷗外という筆名で小説、評論、翻訳を発表し始めます。とくに1889年(明治22年)からの5年間ほどは、医学雑誌2誌と文学雑誌1誌を創刊し、その他の雑誌にも寄稿するなど、健筆をふるいました。その中で、彼を有名にしたのは、「舞姫」にはじまる文学関係の著作でした。この作品は、古い文体でありながら、今でも高等学校の国語の教材として幾種類かの教科書に採用されています。1892年(明治25年)には、「舞姫」「うたかたの記」「文つかひ」のほか、ドイツ、フランス、ロシア、アメリカ、スペインなど世界各国の小説の翻訳を収めた『美奈和集』を出版して、文名を不動のものとしました。

 

  一方、医学の分野での林太郎は、学界が企てた一大イベントを批判して、主筆を任されていた『医事新誌』という雑誌を追われ、それに対抗してすぐさま『医事新論』という雑誌を創刊して批判をつづけるなどの波乱はあったものの、それが陸軍内での昇進のさまたげとはなりませんでした。

 また、1889年(明治22年)から数年間、東京美術学校の専修科で美術解剖学の講師をつとめ、1892年(明治25年)からは慶應義塾大学で審美学の講師をつとめています。

 ということは、20代後半から30歳ころまでの鷗外・林太郎は、軍医、作家、大学講師の3足のわらじを履いていたということになります。

 

 軍医である森林太郎は、日清・日露の戦争に従軍しました。日清戦争に出征するにあたって、彼は2種類の雑誌『しがらみ草紙』と『衛星療病志』を廃刊とします。万が一に備えた身辺整理だったのでしょうか。

 日露戦争(1904年=明治37年)のときには、出征する前に雑誌『万年艸』を廃刊し、遺言を書いています。これも万が一をおもんぱかった措置のようですけれど、全7項からなるその遺言には際立った特徴があります。要旨は、

 第1項:自分の死後の財産は、長男森於菟と自分の母の森峰子で2等分すること。

 第2項:その条件は、長男於菟が相続する分によって、自分の祖母、妻志げ、弟潤三郎、長女茉莉の生活費や結婚費用をまかなうこと。

 第3項:長男の於菟が成年に達しないうちに自分が死んだばあい、於菟の財産は妻志げに管理させず、自分の弟の篤次郎と妹の小金井喜美子に管理させること。

 第4項:この第3項の条件が自分に遺言を書かせる動機なので、その理由を明らかにしておく。すなわち、森志げは長男於菟(林太郎の先妻の息子)と同居して1年以上になるのに、正当な理由なく彼と言葉を交わさず、正当な理由なく自分の母の峰子、弟の潤三郎との同居をつづけることを拒み、この3人に対して悪意をもっているから、自分の遺族の安否を託すことができないのである。

 第5項:長男の於菟が成年に達しないうちに自分が死んで、遺族恩賜金や寡婦孤児扶助料を受けるばあい、たとえ受取人が森志げとなっていても、それらの金は第3項に示した管理者に管理させて遺族全体の安全をはかることを望む。

 第6項:この遺言証書は母の森峰子に管理させる。

 第7項:遺言の執行は冨塚玖馬氏と自分の妹婿である小金井良精に委任する。(1)

 際立った特徴とは、森林太郎の母親への信頼・尊重に対して、妻への不信・冷遇が一目瞭然だということです。しかも、妻にかんする言葉は、あからさまで具体的です。なぜこのような遺言を書いたかを勘ぐれば、いくつかの可能性が思いつきますけれど、長くなりそうなので省きます。

 

 以後も林太郎・鷗外は陸軍軍医と作家活動の両面のほか、文部省の美術審査委員会や臨時仮名遣調査委員会、文芸委員会などで委員をつとめ、あいかわらず精力的に仕事をつづけます。作家としては、以前と異なるジャンルに軸足を移す趣きを見せて、和歌や歴史小説、戯曲や漢詩などを多作します。

 軍医としては、1907年(M40年)に陸軍軍医の最高ポストである陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に就任したものの、3年後に軍医の人事権をめぐって陸軍次官らと対立しはじめ、辞職の申し出と慰留による翻意をくりかえした末、1916年(大正5年)に依願退職を果たします。

 

 ところが、退職から1年半余りが経って、林太郎は宮内省が所管する帝室博物館と図書寮(ずしょりょう)のトップへの就任を打診され、1917年(大正6年)12月、勇躍これを受け容れます。帝室博物館のトップは総長、図書寮のトップは図書頭(ずしょのかみ)と言いました。

 図書寮は律令制の時代から日本にありましたけれど、林太郎がトップに就いたころの図書寮は1884年明治17年)に宮内省に設置されたもので、おもに皇室にかかわる記録を編集・作成し、関連する書物などとともに保存する部署でした。

 帝室博物館は東京、京都、奈良の3つの国立博物館からなり、総長はふつう東京の博物館に出勤します。林太郎のばあい、月・水・金の3日は午前8時から午後4時まで博物館で勤務し、火・木・土の3日は午前8時から午後1時まで図書寮で勤務しました。出退勤の時刻をきちんと守ろうとするのが林太郎の常で、軍医高官時代にはそれが新聞種になるほどでした。結局、博物館総長と図書頭との兼務は、1918年1月から死去するまでの4年半だったことになります。

 

 ここでは森林太郎の図書頭としての業績をふたつご紹介します。

①『天皇皇族実録』の編修

 『天皇皇族実録』の編修は1915年(大正4年)に始まり、その後の4年間でわずか4名の皇族分を仕上げただけでした。森図書頭は、就任するや、計画を立て直し、担当職員を増やし、服務規程を定めて膨大な事業の推進を図りました。

②『帝諡考』(ていしこう)の執筆・刊行

 帝諡とは、天皇崩御後に送る称号のうち、人格をほめたたえる意味をもつもののことです。

 林太郎が「図書館に就任した当時、図書寮では帝諡考を編輯するや否やが問題になってゐたさうであるが、兄は就任後直に編輯する事に決定した。これは歴代天皇諡号の出典を考察したもので、自ら筆を執って僅一年半で完成し、今回完成されるに至ったのである。」(2)

 つづいて林太郎は『元号考』の執筆にとりかかり、大化から大正までの元号について、改元の時期と理由、典拠とされた文献などを調べ始め、この努力は死の数日前までつづけられましたけれど、完成には至りませんでした。

 

 腎臓と肺をわずらって体力が衰えつつあった林太郎は、妻の志げや子どもたちが頼んでも、親友の賀古鶴所が勧めても、医師の診察を受けようとしません。

 そして1922年(大正11年)7月6日、亡くなる3日前に、最後の遺言を口述して枕元の賀古鶴所に代筆してもらいます。要旨は、

 一切の秘密なく交際した友人に{遺言を}代筆してもらう。誰も口出しをしてはならない。

 どのような官憲威力であっても、死という重大事件には反抗できないと信ずる。

 自分は石見の人、森林太郎として死にたい。

 だから、縁故のある宮内省や陸軍の栄典は絶対にやめてもらいたい。

 また、墓には「森林太郎墓」以外に1字たりとも彫ってはならない。(1)

 

 この遺言にも際立った特徴があります。似たような言葉をくり返して「絶対に思いどおりにしてほしい」と訴えているからで、何人もの人がこの遺言の意図を推測ないし憶測しています。一例を挙げますと、評論家の山室静は次のように書いています。

 「その{遺言の}はげしい語気は、まるで彼が一生その禄を食んできた陸軍省宮内省の官憲に対して満腔の憤りと不平をぶちまけたかのようで、言わば死を盾にとって絶縁を宣言しているのである。そこにはたしかに怨恨のようなものが鋭く深く篭められているとも言える。とにかく陸軍省宮内省関係の人々が読めば、かなり不快な遺言であったに相違ない。」(3)

 

 でも私には、この遺言が、憤りや怨恨に根ざした陸軍省宮内省への絶縁宣言だとは思えません。

 森林太郎・鷗外は、長男として、家長として、細やかな気遣いをもって森家を守り支えた人でした。衛生学者として、陸軍の軍医・高官として、(時には大きな判断ミスをおかしつつも)軍と国民の健康増進のために励んだ人でした。文部省や宮内省から声がかかれば、喜んで要請に応じた人でした。自発的な創作・翻訳だけでなく、新聞や雑誌の求めに応じて、文芸関係の執筆を厭わない人でした。そして、死期の近いことを自覚する中、あえて脚を引きずりながら博物館と図書寮に通いつづけた人でした。

 というわけで、森林太郎・鷗外にとっての死は、自らが選んだ浮世の「しがらみ」や「くびき」からの解放だったと考えられます。よって、この遺言は、「最期だけはわがままを通したい」「かみしもを脱いで旅立ちたい」という、自らの解放宣言だと解釈するのが妥当ではありますまいか。言外に、「世のため人のため、人事は尽くした」という自負があるのは言うまでもありません。

 

(2)森潤三郎(もり・じゅんざぶろう 1879-1944)

 森鷗外(林太郎)にはふたりの弟(篤次郎・潤三郎)とひとりの妹(喜美子)がいて、森潤三郎はきょうだいの末っ子でした。鷗外と潤三郎には17歳の年齢差があります。

 1901年(明治34年)、東京専門学校(今の早稲田大学)史学科に入学した潤三郎は、在学中に『朝鮮年表』(春陽堂、1904年)を刊行します。

 

 早稲田大学を卒業した潤三郎は、東京帝国大学史料編纂掛として史料解読の仕事をしていましたけれど、あいかわらず朝鮮への関心やみがたく、1908年(明治41年)、「わたくし{潤三郎}は、京都帝国大学教授上田敏博士の推薦で京都に赴任した。わたくしは始め朝鮮に赴く希望であったが、身体の弱いのを案じて許してくれなかった兄{鷗外}は、京都は親友上田博士の推薦である為に許してくれたのであった。」(2)

 

 赴任先は京都府立図書館、在職期間は1909年(明治42年)から1917年(大正6年)まで、足かけ9年でした。その間、彼は仕事のかたわら歴史の研究をつづけ、兄鷗外が歴史小説を書くときなどに、調査の依頼に応じています。たとえば、

 「{兄が}「伊澤蘭軒」を書き出してからは、京都に関係する事に就いて屡わたくしに照会あり、又気の付いた事をお互に知らせ合って、その都度本文に書き加へてある」ということです。また、潤三郎が東京へ戻ったとき、鷗外の執筆中の作品について夜遅くまで語り合ったこともありました。

 

 1912年(明治45年)3月、彼は米原思都子という女性と結婚します。彼女は、鷗外が4歳のときに四書の素読をならった儒者米原綱善の長女でした。津和野で行われた結婚式に、なぜか長兄の鷗外は出席していません。彼は生まれ故郷に決して戻ろうとしなかった人というのが定説となっていますけれど、かわいがっていた弟とお世話になった旧師の長女との晴れの日にも、津和野に足を踏み入れなかったのでした。

 

 森家の4きょうだいのうち、林太郎(鷗外)、篤次郎(三木竹二)、小金井喜美子は文学に手を染めていますけれど、潤三郎だけは一貫して文献の調査と研究をつづけた人でした。京都府立図書館を退職したあとも、東京帝国大学伝染病研究所の図書室に勤めるなどしていますから、歴史研究や文献調査がよほど性に合っていたのでしょう。

 

 なお、森潤三郎の著作には、兄鷗外についての『鷗外遺珠と思ひ出』(昭和書房、1933年)、『鷗外森林太郎伝』(昭和書房、1934年)『鷗外森林太郎』(丸井書房、1942年)などのほか、図書館関係の『決定版 紅葉山文庫書物奉行』(鷗出版、2017年)があります。

 

(3)山田珠樹(やまだ・たまき 1893-1943)

 山田珠樹は、森鷗外の女婿にあたる人です。つまり鷗外の長女である茉莉(1903-1987)の夫で、ふたりは鷗外が存命中の1919年(大正8年)に結婚しています。夫婦の年齢差は10歳、茉莉は高等女学校を卒業したばかりの16歳でした。

 

 山田珠樹は、1917年(大正6年)、中学時代からの同窓生で2歳下の鈴木信太郎らと同人誌『ろざりよ』を創刊します。この雑誌を介して、彼は5歳年長の辰野隆(たつの・ゆたか)とも親しくなり、のちに3人とも東大でフランス文学を教えることになりました。

 この仲良し3人組に共通するのは、東京生まれ、実家が裕福、一高・東大出身、専門がフランス文学、愛書家、といったところでしょうか。いちばん年かさの辰野隆によりますと、「親友山田珠樹、鈴木信太郎の両君が正に此種の天狗のカテゴリイに属する豪の者」(4)だそうで、「此種の天狗のカテゴリイ」とは、珍本、稀覯書、豪華版などを追い求める人たちのことです。

 

 山田珠樹は、留学させてやろうという親のありがたい申し出にしたがって、フランスへ渡ります。長男の爵(じゃく)が誕生した翌年の1920年(大正10年)のことでした。渡仏するときには心理学を学んでくるつもりでしたけれど、同時期にパリに滞在していた辰野隆内藤濯(ないとう・あろう)らと親しく交わるうちに、関心がフランス文学へ移っていきました。

 

 渡仏2年後の1923年(大正12年)8月に帰国しますと、待っていたかのように起こったのが9月1日の関東大震災でした。このときの地震とそれにともなう建物の倒壊、津波、火災などによって、東京府と神奈川県を中心に10万人以上が亡くなりました。

 山田珠樹の母校、東京帝国大学も大きなダメージを受け、とくに附属図書館はほぼ全焼してしまいます。このときの図書館長は日本図書館協会創立者のひとりである和田萬吉教授でした。彼は1897年(明治30年)から30年間にわたって図書館長の職にあった人でしたけれど、不慮の災難の責任を取る形で、翌年に辞任せざるをえませんでした。

 その後任は宗教学が専門の姉崎正治(あねさき・まさはる)教授で、山田珠樹はたまたま姉崎教授に就職口の世話をお願いしてあったため、教授は翌1924年1月に彼を附属図書館事務取扱、4月に文学部の助教授にしてくれたのでした。

 

 1925年(大正14年)、山田珠樹は司書官に昇進します。司書官というのは、1908年(明治41年)に公布された「帝国大学事務官、帝国大学司書官帝国大学司書特別任用令」にもとづく職名で、帝国大学の図書館に勤務する上級専門職員のことです。

 余談になりますが、近年ベストセラーとなった『君たちはどう生きるか』の著者吉野源三郎は、司書官ではありませんでしたが、東京帝国大学卒業後の数年間、母校の附属図書館員だったことがありました。

 

 遊学から帰国後の数年、山田珠樹はめでたく就職が決まり、罹災した図書館のために姉崎館長を補佐するかたわら、仏文科で講義を担当するなど、仕事の面では30歳を過ぎたばかりの司書官に追い風が吹いていました。

 また、司書官に昇進した年には次男の亨(とおる)が誕生して、家庭的にもうまくいっているようでした。けれど、1927年(昭和2年)、珠樹・茉莉の夫婦は離婚します。後年、妻の茉莉が書くところによりますと、「私と、夫だった人{珠樹}とは真から底から駄目になっていたので、二人には会話が皆無だった。」「ほんとうに駄目な夫婦は、会話が無くなる」状態がつづいていたのでした。(森茉莉『紅茶と薔薇の日々』ちくま文庫、2016年)

 

 結局、山田珠樹は1924年大正13年)から1930年(昭和5年)までの足かけ7年、東京帝国大学附属図書館で働きました。以後、仏文科で辰野隆鈴木信太郎らとともに教育に専念したのでした。惜しいことに、1934年(昭和9年)、肺結核のために東大を休職せざるをえず、2年後に退官して療養につとめましたけれど、1943年(昭和18年)に50歳で亡くなりました。

 

参照文献:

(1)『日本の名随筆 別巻17:遺言』(作品社、1992年)

(2)森潤三郎『鷗外森林太郎』(丸井書店、1942年)

(3)山室静『評伝森鴎外』(実業之日本社、1960年)

(4)辰野隆「書狼書豚」 in 井伏鱒二編『読』(日本の名随筆36、作品社、1985年)

逃避や避難の場としての図書館

 2015年、学校の夏休みが終わろうとするころ、鎌倉市図書館のツイッターに「学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい」「逃げ場所に図書館も思い出してね」という趣旨の文章が載り、大きな反響を呼びました。リツイートや返信の中に、「自分は図書館へ逃げ込んだことがある」という経験を書いた人もいましたね。

 

 私の手元にある1冊の講演録で、講演者の竹内悊(たけうち・さとる)氏が、事故や自殺にかんする質問に対して、アメリカの図書館のポスターを紹介しています。そのポスターの構成は、大量の本を目の前にした人が右手のピストルを自分のこめかみに当てている絵と、その下のキャプションから成っています。

キャプションに曰く、「もし貴方が自殺しようと思うのなら、おやめなさい。その代わりに、図書館へおいでください。」(竹内悊『これからの図書館員のみなさんへ』図書館問題研究会宮城支部2001年)

 この講演録の表紙にも、同じ絵と、本文よりも短いキャプション「ちょっと待って! 自殺はやめて図書館へ」が印刷されています。

 ちなみに講演者の竹内悊氏は、図書館情報大学教授や日本図書館協会理事長などを歴任された方です。

 

 たしかに、図書館は何かからの逃げ場所、避難場所となることがありました。いくつかの例をご紹介しましょう。

 

 『放浪記』を書いた作家の林芙美子が通った尾道市立高等女学校には、運動具などが転がっている小さな図書室がありました。両親が近くの町や村へ行って雑貨を売り歩いていたため、彼女は誰もいない家へ帰りたくありません。かと言って仲のよい友だちもなく、女学校を卒業するまでの4年間、彼女はほとんどその図書室で暮らしていたのでした。学校の図書室は、孤独な少女にとって逃避の場であると同時に、寂しさを紛らしながら、読書によって作家の素地をはぐくんだ場でもあったのですね。(林芙美子「文学的自叙伝」in林芙美子随筆集』岩波文庫2003年)

 

日本初のノーベル賞受賞者となった湯川秀樹は、京都府立第一中学校へ入学してから、以前に増して無口になりました。友だちとつきあわなかったわけではなく、頑なに自分を守ろうとする内面世界が開かれただけでした。向かったのが静思館と名づけられた学校の図書館で、少年は時間を見つけては「自分だけの世界にとじこもる最良の方法」として読書にふけったのでした。(湯川秀樹『旅人:湯川秀樹自伝』角川ソフィア文庫1960年)

 

 日本でも20冊ほどの著書が翻訳出版されているフランスの歴史家ジャック・ル・ゴフは、オックスフォード大学へ留学していたとき、流暢に英会話ができませんでした。また、それを本気で勉強する気にもなれなかったため、学寮にいる学生たちとあまりつきあわず、もっぱら図書館で過ごし、孤独な生活を送っていました。自分で「孤独な生活」と言ってはいますけれど、彼のばあいは研究に没頭するために図書館へ「逃避」していたように思われます。(ジャック・ル・ゴフ著、鎌田博夫訳『ル・ゴフ自伝:歴史家の生活』法政大学出版局2000年)

 

 図書館はまた、家業の手伝いから逃れるための隠れ蓑となることがあります。

 大野晋(おおの・すすむ)は一時、日本語はタミル語と同根であるという説を唱えた国語学者で、『日本語練習帳』がベストセラーとなって一般に知られるようになりました。

彼の父は東京の下町で砂糖の商いをしていたものの、あまり商売上手ではありません。おまけに政府の緊縮財政なども影響して売り上げが落ち、店の半分でパンの販売を始めます。当時開成中学校へ通っていた晋少年は、人通りの多い街頭で宣伝ビラを配ったり、店番することを命じられました。多感な年ごろの少年にとって、これは困ったことですね。

 「そのうちに、日暮里の学校からの帰り途に「清澄公園前」で市電を降りてしまい、二銭払って「深川図書館」に寄るくせがついた。夜九時の閉館まで図書館で遊んですごす。それから家へ歩いて帰ればもはや店番に出されることはな」く、「学校の宿題で」と言えば、「図書館行きは決してとがめられない聖域となった」のでした。(大野晋『日本語と私』河出文庫2015年)

これは家業の手伝いからの逃避の例になるでしょう。

 

 イギリスの作家コリン・ウィルソンは、若いころ徴税事務所に就職して「案の定、税金関係の職は退屈だった。通勤日には、まず「予定表A」という用紙に記入する仕事があったが、それを済ませてしまうと、あとはすることが殆どなかった。」「私は近くの角を曲がってすぐのところにあるレスター中央図書館に逃避したものだが、その回数は大目に見られるよりもずっと多かった。その上、用紙記入の仕事がない時には、就労時間中にでも読書を許された。『戦争と平和』を読んだのは、そういう時だったのである。」(コリン・ウィルソン著、中村保男訳『コリン・ウィルソンのすべて』上下、

河出書房新社2005

これは職場からの一時的な逃避の例になります。

 

 哲学者の木田元(きだ・げん)は太平洋戦争が終わる4か月ほど前の19454月、16歳で江田島海軍兵学校に入学しました。敗戦によって、生徒たちは8月下旬から汽車で帰宅し始めましたが、著者の家族や親戚はみな満洲にいて、彼の帰っていく家はありません。日本のどこにどのような親戚がいるかもわからず、困り果てていますと、彼の分隊付き教官だった今泉という人が「佐賀にある自分の実家へ行け」と勧めてくれます。教官の今泉氏はまだ江田島に残っていて、佐賀の町外れにあった今泉家には、東京から疎開してきた姉一家や復員してきた弟などもいました。居候の木田元は、食料の乏しい時期の大家族にまぎれこんで、、肩身の狭い思いをします。

「することもないので、毎日図書館にいって本を読んでいたが、これからどうしたらいいのか思いあぐねるばかり、九月七日に一七歳になったところだった。」(木田元『私の読書遍歴』岩波現代文庫2010年)

このばあいは、のちに立派な学者になる居候が、いたたまれずに図書館へ逃げ込んだ例ですね。

 

 ノーベル賞を受賞した大江健三郎氏は、1950年、できたばかりの高等学校に入学しますと、「そこでかなり苦しい目にあった。いまでいえば、運動部の連中の組織的なイジメの対象にされたのです。」そこでやむなく「図書室に入りびたって、世界文学全集を読んでいました。」見かねた先生たちのお世話で、彼は2年生から松山東高校編入学します。(大江健三郎『読む人間:読書談義』集英社2007年)

 このばあいは、学校でのいじめからの逃避ですね。

 

 アイヌ言語学者民俗学者である知里真志保(ちり・ましほ)が学校での白眼視を逃れるために図書館通いをしたという話は、当ブログの「授業よりも図書館通いをした人たち」に書きました。アイヌ出身ということが偏見の理由だったのですね。

 

 情勢がかなり変化しつつあるとは言え、性的少数者LGBTQ)もいまだに偏見や差別の対象になることがあります。

 たとえば、1993年に公開されたアメリカ映画『フィラデルフィア』は、エイズとそれに対する偏見が主題となっている作品です。HIV感染が原因で解雇されたある若い男性弁護士は、彼を解雇した弁護士事務所と闘うために図書館で調査を行います。ところが、彼をエイズ患者だと見抜いた館員が、いんぎんに個室の利用を勧めます。この館員は、ほかの利用者が嫌がることを懸念して、若い弁護士に個室の利用を勧めたのではないかと思われます。

 2008年に翻訳が出版された『場としての図書館』には、「コミュニティにおける安全な場としての図書館」という1節が含まれています。ここでは、性的少数者たちが公立図書館で「他者に知られずに蔵書に出会うこと、匿名で蔵書に出会うこと」ができるため、そこは「避難所あるいは安全なスペース」でありうるのだと主張しています。(ジョン・E・ブッシュマン、グロリア・J・レッキー編著、川崎良孝ほか訳『場としての図書館』京都大学図書館情報学研究会、2008年)

 

 そのほかにも次のような例があります。

①暑さ寒さを逃れて図書館へ行く。

この傾向は、とくに近年になって顕著になりました。熱中症で死者が出るほど夏場の気温が上がったこと、行政が省エネ・節電のためのクールシェアを呼びかけたことなども影響しているのでしょう。

②暴力を逃れて図書館へ行く。

アメリカのカリフォルニア州オークランド公共図書館では、「夏休みに入ると学校が閉まってしまうために、両親が仕事で不在の子どもや治安の悪いストリートから安全な場を求めて逃げてきた子どもが、館内で一日中過ごすケースが見られた」ということです。(カレントアウェアネスE1448、菊池信彦「公共図書館が子どもにランチを提供:夏の読書プログラムで」)

次もアメリカの話ですけれど、「国際ユダヤ人女性」Jewish Women Internationalという団体は、家庭内暴力を受けている女性のためのシェルターをつくる活動をもしています。ところが、避難する女性と子どもがほとんど荷物を持たないまま身を寄せる例が少なくありません。そこで、滞在期間が長期化する人とその子どもたちのために、団体はシェルター内に児童図書館を設置しつづけています。この団体のウェブサイトによりますと、シェルターに図書館があるのは48か所、ないのは25か所です。

このばあいは、図書館が避難の場ではなく、避難の場に図書館があるという例です。

③災害時に図書館へ避難する。

図書館の建物は、被災者の避難所となることを想定して建てられてきませんでした。ために、長期間の避難所としては役に立ちません。けれども、住民の要望で短期間の避難所として利用される例は過去にも最近でもありました。

 

 逃避とか避難という言葉には消極的なイメージがありますけれど、「図書館への逃避」や「図書館への避難」となりますと、ニュアンスが少し変わります。文字どおり何かから逃げたり何かを避けたりするだけでなく、その表現の裏に、上に見たとおり、図書館で何かの目的を達成するための口実や現実がひそんでいる例が多いからです。

 たとえば、永井荷風が「大掃除なり。塵埃を日比谷図書館に避く」と日記に書くとき、ただ塵埃や騒音から逃れただけでなく、散歩の道すがら季節の移ろいを感じ、図書館の静けさに包まれて、未見の書物の中に何かを発見しているかもしれないのです。

李大釗(り・たいしょう 1889‐1927)

 李大釗は、中国共産党の創設を主導した思想家のひとりです。また、北京大学の図書館長や教授でもありました。

 彼は1889年、河北省楽亭県の大黒沱(だいこくた)村の農家に生まれ、幼くして両親を亡くします。孤児を育てたのは、孫に教育を受けさせるだけの財力があった祖父母でした。4歳になりますと、大釗は村の私塾で四書五経などの勉強を始め、順調に成長してゆきます。

 大釗が11歳になりますと、祖父は農村の慣習にしたがって、彼を同じ村の17歳の娘と結婚させます。当時は、親が決めた結婚を認めない毛沢東のような息子が少なくなかったのですが、李大釗のばあいは夫婦仲がよく、妻は夫の祖父母にかわいがられ、近所の人たちとも上手につきあったのでした。それにしても、11歳で結婚とは驚きますね。

 

 1905年から7年まで、李は永平府の中学で旧来の学科のほかに西洋風の新しい科目をも学び、ついで1907年から13年までの6年間、天津にあった北洋法政専門学校で経済学を中心にして政治や法律、日本語や英語をも学びます。

 専門学校を卒業後、李大釗は早稲田大学政治経済学科に留学します。早稲田大学は中国からの留学生を積極的に受け入れるため、1905年から「清国留学生部」を設けていましたけれど、李大釗が留学した時にはすでに廃止されていました。

 ちなみに、李大釗とほぼ同時代に日本へ留学した経験をもち、のちに中国の政界や学界で活躍した人に、楊昌済(教育者、毛沢東の岳父)、陳独秀中国共産党の初代総書記)、魯迅(作家)、蒋介石(政治家・軍人)、周恩来(政治家)などがいます。

 

 李大釗が早稲田大学に留学する前から、故国では国をゆるがす出来事が頻発していました。彼がとくに心を痛めたのは、清朝を倒して中華民国を建設した孫文に代わって大統領に就任した袁世凱(えん・せいがい)の動きでした。

 李大釗は1916年、28歳のとき、早稲田大学を卒業しないまま帰国し、ペンの力で袁世凱政府を打倒しようとします。方法は、雑誌や新聞を創刊し、自ら筆を執って精力的に記事・論説を書くことでした。

 

 19182月、李は国立北京大学の図書館主任に招かれます。推薦したのは陳独秀、受け入れたのは自由主義思想をもった蔡元培学長でした。森正夫『李大釗』(人物往来社1967年)によりますと、

 「彼は図書館制度自体についても相当の研究をしたらしい。一九一九年に行なったある講演で、彼は図書館の任務にかんする自分の考えを述べ、図書館と社会教育の密接な関係、大学に図書館学科を置く重要性を強調したことが明らかにされている。彼は綿密にプランを練り実行に移した。そして、旧来の北京大学第三院、理科の片隅にあった古びた書庫を、一九一八年八月に新築された第一院、文科の建物に移し、その一階全部を新図書館に充て、十四の書庫と五つの閲覧室を置いた」ということです。(1

また、呉建中ほか著、沈麗云ほか訳『中国の図書館と図書館学:歴史と現在』(京都大学図書館情報学研究会、2009年)の「序論」には、より詳しく李の図書館にかんする業績が列挙されています。(2

「李大釗は中国共産党の主要な創始者1人で、北京大学図書館長も務め、図書館にも以下のような大きな貢献をした。(1北京大学図書館をマルクス主義を普及させる拠点とした。(2)自ら図書館学の授業を担当した。北京女子高等師範学院、朝陽大学、中国大学などで「史学思想史」、「社会学」、「図書館学」などの授業を担当している。(3)図書館学を深く研究し、「多くの図書館を設立する」と主張した。(4)図書館員の養成と研修を重視した。(5)北京図書館協会の設立を積極的に推進した。191812月に同協会が設立され、李大釗は中文書記に推薦された。こうした数々の業績によって、李大釗は現代図書館事業の創始者1人として確固たる地位を占めるにいたった。」

 一方、図書館主任室(館長室)とそれに隣接する会議室は、1918年の暮れごろから急進的な北京大学学生のたまり場となり、「北京大学図書館長室はまもなく「紅楼」、すなわち「紅い部屋」として知られるに至った」ということです。(3

 19219月、李大釗は図書館長の職を辞し、教授職と蔡元培学長の秘書とを兼ねるようになったため、彼の図書館勤務は約3年半で終わりました。

 

 その間、李大釗の考えは徐々にマルクス主義へ傾いていきました。その端的なあらわれが1919年に雑誌『新青年』に発表した「私のマルクス主義観」です。これは、中国で初めてマルクス主義を本格的に紹介した論文だということになっています。

 この1919年は、中国にとっても李大釗にとっても、重要な年となりました。いきさつは次のとおりです。

第一次世界大戦の講和会議が1月からパリで始まり、敗戦国ドイツがもっていた山東省の権益を戦勝国のひとつであった日本が継承すると主張したのに対して、同じ戦勝国だった中国はそれを断りました。

 容易に決着がつかない中、54日、これに抗議する北京の学生数千人がデモを行いますが、指導したのが李大釗でした。やがてこれが全国の大都市の労働者や商店のストにまで広がり、のちに五・四運動(ごしうんどう)と呼ばれるようになったのでした。

 

 旗幟を鮮明にした李大釗は、1920年、陳独秀などと共産党の創立に動き出します。このふたりは中国共産党創立の中心人物ということになっていますけれど、19217月の創立大会には、都合がつかなかったので出席していません。

 その後、急速には党勢を拡大できなかった中国共産党は、国民党との協力、いわゆる国共合作を目指します。国内の軍閥や事あるごとに内政干渉する諸国に力を合わせて対抗するためでした。このとき李大釗は孫文と面会して、共産党員が党籍をもったまま国民党員になるという条件を認めさせ、自分は共産党の中央委員でありながら、1924年には国民党の中央執行委員にも選ばれたのでした。

 19253月の孫文の死去以降、混迷を深めつつあった政情の中で、李大釗は相変わらずストライキを指導し、デモを組織し、執筆活動をつづけていました。

 けれども、192746日、逮捕を逃れるために住み込んでいたロシア大使館で、李大釗は張作霖の軍と警察によって逮捕され、428日、死刑判決が出たその日に絞首刑を執行されました。まだ37歳でした。

 

参考文献:

1)森正夫『李大釗』(人物往来社1967年)

2)呉建中ほか著、沈麗云ほか訳『中国の図書館と図書館学:歴史と現在』(京都大学図書館情報学研究会、2009年)

3M. メイスナー著、丸山松幸・上野恵司訳『中国マルクス主義の源流:李大釗の思想と生涯』(平凡社1971年)